貧乏自慢・その3

金持ちと貧乏って何だろう・・・から始まった貧乏自慢だが、今回で早くも3回目、まるで連載記事の様相を呈してきた。
1回目は、なぜ僕が世間の誰もが忌み嫌う貧乏にあえて挑み続けるのか。
2回目は、そんな僕が目指す貧乏とはいったい何なのかを紹介した。
という訳で、3回目はなぜこの話を皆さんに伝えたいかを話すべきだね。
それは、一言で言えば「面白い」から。
こんな面白いこと、僕が独り占めするにはあまりにももったいない。
だけど、その面白さをどう伝えようかと考えるうち、もう少し頭の整理が必要だと気が付いた。

貧乏自慢というタイトルは、僕の個人的な貧乏を自慢したいのでなく、貧乏には自慢すべき価値や魅力がたくさんあるという意味だ。
「貧しく乏しい」という言葉の意味がひど過ぎるので、忌み嫌われるのも無理はない。
だが、少数の人に富が集中しているなら、それ以外の多数が貧乏ということになるはずだ。
つまり、そもそも貧乏こそが「マジョリティ(多数派)」なのではないだろうか。
これに対し、「分厚い中間層」と言われる中流階級を普通と呼んで、下層階級を貧乏と蔑(さげす)んでいるようだが、こんなの金持ちになれなくても、貧乏でさえなければ大丈夫という発想にしか思えない。
誰もが「貧乏でない普通」を目指す社会だからこそ、貧乏が嫌われ、蔑まれるのは当然のことだろう。
僕が異を唱えたいのは、まさにこの点だ。
何かを悪と決めつけて直視せず、それを排除することしか考えないことに、僕は強く警鐘を鳴らしたい。

振り返ってみれば、この話題に関する僕の主張は、枚挙にいとまがない。
そもそも、僕の原点とも言える会社倒産の時だって、「会社の潰し方」に関する書籍が見つからず、本屋にあるのは「会社を潰さないための本」ばかりだったので、あえて僕は「良い倒産」の実現を目指して頑張った。
先日のブログ「平和の作り方」で紹介したポジティブピースとネガティブピースの話だって、パクチーハウスのKSさんが「旅ができる平和」の実現に取り組む話だった。
考えてみれば、僕が実現にこだわることだって、何かを避けたり除くのでなく、自分の夢が実現した姿を描くためだ。
つまり、お金が足りない状況を直視して、その状態でこそ実現できる幸福を追求することだ。
そしてこの点については、その1で述べたとおり、30億の借金を返したくない僕にとって、貧乏になることこそが「最善の方法」だった。

僕は、債権者に対し「返済の意思はありません」と明言し、自分で立ち上げた会社のために懸命に働いて自身は平社員として応分の給与を頂いた。
2005年には、建設会社をやめて起業支援の仕事に打ち込み始め、翌年家族の会社(なのに)を設立して、全ての報酬はその売り上げにした。
やがて、パートナーとして様々な起業に参加して、法人や任意団体を作りまくるようになり、仕事はどんどん忙しくなってきたが、面白い仕事しか手伝わないので全てが楽しく、次第に遊びや休みの暇が無くなった。
そんな会社が成功して次第に組織化が始まると、何でもこなして歯車にならない僕は「器用貧乏」と言われて解雇されたり、おカネが無いので遊びの誘いを断ると「貧乏暇なし」と揶揄された。
だが僕はかえって「貧乏」が好きになり、自ら好んで「器用貧乏 of 貧乏暇なし」と名乗るようになっていた。
もちろん人は「貧乏」を悪い意味で使うのだが、僕にしてみれば、会社の歯車になるのを防いだり、行きたくない誘いを断る理由として大いに役立つ「良い言葉」となっていった。

そして、ある時僕は、おカネが普及したのは明治維新以後のことであり、それ以前の経済は主に「自然経済(非貨幣経済)」であったことに気が付いた。(https://nanoni.co.jp/251005-2/)
もちろん貨幣経済の歴史は古いが。明治以前はごく一部の取引だけで、大部分の経済は貨幣でなく米や信用あるいは物々交換だった。
さらによく調べてみると、物々交換や等価交換の概念はかなり特殊で、自然経済の基本は、贈与や貸し借りだったと考えられる。
実際に現代でさえ、すべての価値移動のうち、金銭授受を伴うものはごく一部だ。
空気もタダで吸えるし、太陽や風雨など自然の恵みは全て無料だ。
石油もマグロも全て無料だし、もちろん土地は地球なので原価はタダだ。
おカネを必要としているのは人間だけで、全ての支出は人間に対する支払だが、人間同士でさえ無償での貸し借りや助け合いは限りない。
むしろお金は、これらの価値を比較したり計算するときに便利なだけで、おカネ自体は引換券に過ぎないことは何度も述べた。

いかんいかん、またしてもお金の悪口になってしまったが、最期に本題に戻してまとめよう。
今日は貧乏の魅力や価値について語りたかった。
まず、僕が幸運だったのは、会社倒産のおかげで自他ともに認める「本物の貧乏=一文無し」になれたこと。
そのおかげで、多くの人に救われた上に、詐欺師や借金取りが寄り付かず、法的手段(差し押さえや破産申立)も講じられず、費用(30万〜130万円程度)が掛かるので自己破産すらしていない。
次に、貧乏は何でも自分でやらなければならないので、頑張って器用になったこと。
また、やるべきことがたくさんあるので、いつも忙しく暮らせたこと。
そして最後に、貧乏こそが大多数でむしろ普通であり、金持ちの方が少数の特殊例だと気づいたこと。
貧乏ならではの幸福を実現できれば、それは多くの人の参考になると確信する。
こうして、僕の貧乏自慢は貧乏賛歌へと猛進する。
続きは本でも書こうかな!

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