貧乏自慢・その2

金持ちと貧乏って何だろう・・・から始まった貧乏自慢だが、前回は「非営利法人による事業展開にのめり込み、「営利=会社・非営利=社会」の対比に気が付いた。」までお話した。
その中で、会社倒産により30億の借金を背負ったことがきっかけとなったことはお話したが、今日はこの点をもう少し丁寧に説明したい。
僕はこの債務を瞬時に踏み倒そうと決めたのでなく、その是非というか、犯罪に該当するかどうかを確認した。
そもそも借金の返済をやめてそのまま放置しても、借金を踏み倒すことができないのは、借金を放置したところで、返済義務がなくならないからだ。
だが、借金の返済は、刑事責任ではなく民事責任なので、返済しなくとも犯罪行為にはならず逮捕されることはないし、民事責任にも時効があり、借金は5年、保証債務は10年だ。
ただし、詐欺などの不正が伴えば、詐欺罪などの犯罪に該当するので、僕は常に情報開示に努め、衆人環視の元で不正の防止に努めた。
そして、日本国内だけでなく、諸外国の法令もチェックして、必ず世界の常識とも照合するよう心掛けた。
その結果、当時の韓国では債務不履行が犯罪となり、ここが日本で良かったなと思ったが、今確認すると、どうやらそんな国は存在しないようだ。

借金については、面白い話がたくさんあるが、ここでは本題の貧乏の話に戻そう。
会社を破産申請し、自身は一文無しになり、裸一貫で出直しますと宣言すると、すべての債権者とY組さんからの督促はなくなったが、残った約30億の保証債務は「非上場企業の借金には代表者が連帯保証する」という日本独自の悪弊(悪い習わし)なので、僕は世界の常識に準じてこれを踏み倒すことにした。
最長で10年間返済しなければ時効が成立するのだが、おカネがあるのに返済しないのでは説明が成り立たない。
そこで僕は、自らを「返済能力のない人=貧乏」になろうと決意した。
もう少し具体的に言うと、返済能力とは、「自分が生きて活動するのに必要なお金以上の余剰金で返済できる」という意味で、この「最低限の収入」を明確にすることは、自分自身にとっても大切だ。
つまり、僕自身が生きていくのに必要な最低額を追求することが、僕の貧乏チャレンジの内容だ。
貧乏自慢というタイトルは、貧乏という状態を自慢するのでなく、貧乏を目指すプロセスというか、貧乏になるチャレンジの提案だ。
僕が非営利経営にのめり込んだのは、まさに貧乏チャレンジの延長なので、今日はこのことについて論じてみよう。

まず、個人の貧乏チャレンジは、生活経費の棚卸と断捨離だ。
衣は、服装の標準化を進めて下着、靴下、シャツ、ズボンを統一し、収納スペースを決めて廃棄してスペースが空いた分だけ補充した。
食は、2014年の糖尿病発症をきっかけに、厳重な熱量管理を開始して、3か月後にインスリン注射からの脱却後は、食事・運動管理を継続し、昨年2月より自炊開始と同時に、栄養&コスト管理を実践中。
住については、長らくカミさんの実家に同居(居候)してから3年前から一人暮らしを開始して、現在はふきの庭の住み込み管理人として報酬と家賃の相殺中。
移動については、燃費75km/lのスーパーカブ(原付)でどこでも駆け付け、遠隔地の場合だけ移動費を実費で請求しながら活動している。
その他、医療費は週に2回の水泳などの健康管理で節約し、娯楽費は時々映画に行くくらいで、仕事が最大の遊びになっている。

次に、収入の方だが、給与は総額6万円(手取りは5万円弱)を昨年起業した「(株)KITAKEN」から得ていて、現在豊島区内の某地縁団体の事業構築などに関わっている。
その他、笑恵館など自身が従事する事業からの報酬は全て「(株)なのに」に収入し、個人が引き受けた分だけを個人事業収益にして、青色申告特別控除65万円以内に収めている。
現在自ら主宰する法人は日本土地資源協会のみだが、こちらは会員となった土地所有者が自らの土地資源活用事業を、個人事業とせずに法人の事業部扱いとし、非営利事業の連結会計を実施することで、赤字メリットを共有している。
つまり、個人では「返済能力(余剰金)の低さ」を追求し、法人においては、金利を生む借り入れや、税負担を生む剰余金そのものを生まない「赤字の活用」を追求している。

こうして振り返ると、これは「貧乏」でなく「ケチ」の方がふさわしいかもしれない。
考えてみれば、金持ちにもまた「ケチ」が含まれるので、「カネを集めるためのケチ」でなく、「無駄にカネを生まないケチ」を目指している。
先ほど「返済能力」を「余剰金」と言い換えたが、これは一般に言う「利益」を指す。
「利益」と聞くと、誰もが「おカネ」をイメージするだろうが、「利益」とは「よい効果を得ること」であって、「おカネ」はその引換券に過ぎない。
大河ドラマで財政に走る田沼意次(渡辺謙)に対し、松平武元(石坂浩二)が「コメと違ってカネは食べることもできない」と苦言を呈する場面があったが、確かにおカネはお尻も拭けない役立たずだ。
もちろんおカネは決して不要ではなく、利益を得るために必要だが、目的はあくまで利益そのものであって、おカネはそれを得るための手段に過ぎない。
だから僕は、おカネに頼らず自分の力で利益を得られるよう、努力することをケチもしくは貧乏と呼んでいる。

さて、ここからがいよいよ本題で、おカネが利益で無いのなら、自分の利益は何なのか。
つまり、「おカネ」を集めることで何でもできる気になるのでなく、何でも自分でやってみることが僕の言う「貧乏チャレンジ」だ。
「おカネの利益(剰余金)を追求すること」を、「営利」というのだから、「非営利」は「利益を追求しない」のではなく「お金以外の利益(よい効果)を追求すること」だと判って欲しい。
今日はここまで、つづきはまた次回。

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