「終の棲家(ついのすみか)」とは、生涯を終えるまで生活する場所、つまり人生最後の住まいのことを指す。
具体的には、自宅、高齢者向け住宅、老人ホームなどが考えられるが、その選び方は個人の価値観や介護の必要性、経済状況などによって異なるとされている。
だが、絶対に避けて通れないのが「どのような最期(死)を迎えたいか」という「終」の問題だ。
僕自身、もうじき92歳になる母の体力がみるみる衰えて、先日要介護レベル5に認定されたのを契機に、見守る母に自身を重ねる自分に気が付いた。
幸い母は、足の痛みを訴える他は血液検査の結果も良好で、頭脳明晰、耳もよく聞こえて僕の細かい質問にも丁寧に答えてくれている。
そんな中、コロナ禍を経てマンネリ化した笑恵館の食事会をリフレッシュするために、来月から「終の住み家を作ろう会」を開始することになったので、今日はそのキーワードをいくつか紹介したい。
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まず初めに、僕はこの会を「普段話し難いことを、平気にズバズバ話せる会」にしたい。
「ついのすみか」を漢字変換すると「終の棲家」となるが、「棲家」は「住んでいる場所・住まい」という意味で、人間だけでなく鳥や獣などが住む巣を指す場合に加えて、特に好ましくないものが住む場所、例えば「鬼の棲家」のように使われることもある。
そこで僕たちは、あえて「終の住み家」と書いて、しっかり人間の最期を迎える家を考えたいと思う。
そして「終」についても「最期=死の瞬間」と捉え、具体的な死に方について、ざっくばらんに議論したいと思う。
恐らく、こうした話は「縁起でもない」と避けられがちなのが通常だと思うが、この通常を壊すことで、その先の新しい話をしてみたい。
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もう一つのキーワードが、笑恵館のパンフレットに記載された「人生終わりよければ全て良しとなる家」だ。
『終わりよければ全てよし』(おわりよければすべてよし、All’s Well That Ends Well)は、シェイクスピア作の戯曲名が世界に広まって、戯曲の内容と関係なく各地に定着した言葉らしい。
僕は最初に聞いた瞬間に「終わりが悪ければ全部だめ」なのかと困惑したが、「終わりが良ければそれまでのことがすべて良かったことになる」つまり、「物事の良し悪しは後から決めるモノ」と今では納得している。
だからこそ、終わりの瞬間の良し悪しこそが大切なのだから、それについて大いに語り合いたいというのが僕の願いだ。
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さて、「良い死に方とは何か」そんな議論は果たして可能なのだろうか。
実は「終の住み家」とは、先述の通り「自宅、高齢者向け住宅、老人ホーム」などのどれかを意味しており、当然のことながら病院や事故現場などは含まれない。
つまり、病気になって治療中に亡くなったり、事故や災害でなくなることは想定外で、普段の日常生活の中で平穏に無くなることが前提だ。
そこで早速、友人に勧められた「家族と迎える平穏死(石飛幸三著)」を購入し、母の見守りの参考書に採用した。
長年外科医として活躍したのに、父の看取りなどをきっかけに特別養護老人ホームの常勤医に転身した著者によるこの本は、冒頭から「死の高齢化」という言葉からスタートする。
こんな言葉を突きつけられ、もちろん僕は黙っていられない。
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「死の高齢化」、なんてすばらしい言葉だろう。
クールな上に的確で、忌まわしさの微塵も無い決め言葉。
話は突然脱線するが、かつて、世界ふぐ協会の立ち上げを手伝った時、その取り組む課題として僕は「ふぐが美味しすぎる問題」と提案した。
当時、関西中心だったふぐ食を「身欠きふぐ」とともに関東で普及させたいが、その障害は明らかに「ふぐの毒による死亡リスク」だった。
だが、「毒」や「死」といった忌み言葉で恐怖心を煽るのでなく、そのリスクをもたらす「ふぐの美味しさ(魅力)」こそを問題化した、僕のヒット作だった。
「死の高齢化」は、この時の興奮を想起させる「衝撃ワード」で、この言葉に触発される自分がすごくうれしい。
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というわけで、まるで中身のない話になってしまったが、続きは当日語りたい。
来る8月21日(木)の18時から、笑恵館にて、下記の要領で開催する。
http://shokeikan.com/mtg25
今後は当分の間、毎月第3木曜日に開催するので、是非とも参加して欲しい。
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