自分の本末

今回から、このブログは「実現ブログ」と改称し、実現にまつわる様々な考察に挑みたいのだが、まずは僕が実現にこだわるようになったいきさつを簡単に紹介したい。
繰り返しになるが、全てのきっかけは、1999年に僕が42歳で経験した会社の倒産だ。
メインバンクが破たんして、2か月後には資金が枯渇、お得意様のゴルフクラブに会員権の買取をお願いに行った時、僕は倒産を覚悟した。
だが、いくら調べても倒産の定義は見つからず、「会社の潰し方」の参考書も見当たらないので、顧客、社員、下請け、銀行、その他あらゆる関係者に現状をそのまま伝え、僕がなすべきことを聞き漁った。
細かいプロセスは全て割愛するが、結果として下請けの連鎖倒産を出さずにすべての施工中現場(仕掛)を完成させ、旧会社の破産手続きを完了させながら、多くの社員の再就職を見届けて残った社員と新会社を設立し、5年後にはその会社を社員たちに託して僕は新たな仕事を模索し始めた。
こうして自慢げに語るのは、これらはすべてまぐれでなく、僕が願って実現したからであり、その喜びや自信を分かち合う仕事を今も模索し続けていることは言うまでもない。

こうして立ち上げた「株式会社なのに」に、当時の僕の思いがてんこ盛りに詰まっていることは、その設立文からも読み取れる。
家族が幸せになるための仕事なのに、いつしか仕事に追われ家族と過ごす時間がなくなってしまう。
仕事をするための会社なのに、いつしか会社のために仕事をするようになってしまう。
そんな本末転倒に立ち向かうため、私たち家族は「株式会社なのに」という会社を作りました。
大株主で社長のカミさんと取締役の二人の息子に、平社員のおやじ(僕)がこき使われる「家族をそのまま法人化」することで、本末転倒を防ごうとした。
もちろん、当時の僕は約30億の保証債務を背負いこんで、取締役などになれる身分では無かったが、小さくても多くの実現を成し遂げるうちに、カネや地位を当てにせずにチャレンジすることの醍醐味に、すっかり魅了されていた。

ちなみに「本末転倒」を調べると、実用日本語表現辞典によれば・・・
本末転倒とは、「重要な部分とどうでもいい部分を取り違えること」や「手段と目的を履き違えること」あるいは「逆効果になること」などの意味で用いられる表現である。
本末転倒の「本末(ほんまつ)」は、「根本と枝葉」「大切なことと些細なこと」「本寺と末寺」などを意味する語。
同じく「転倒(てんとう)」は「さかさまになること」を意味する語である。
・・・とのことだ。
では、人はなぜ「本」と「末」を取り違えるのだろう。
それは、物事の優先順位は人によって異なる上に、他人には絶対理解できないからだと思う。
もちろんここでの優先順位は、単なる順位でなく、善悪、好悪、賛否、美醜などすべての対比を意味している。
つまり、人が思うことは本人にしか分からないという極めて当たり前のことを指す。

そこで先日、(株)なのにのHP挨拶文に、こんなことを書いてみた。
私たちは、「必要なのに誰もやろうとしないこと」に挑む会社です。
これは決して特殊でなく、至る所に転がっています。
特に「必要なのに伝えられず誰にも手伝ってもらえないこと」が見過せず、そんな思いの伝達や実現のお手伝いに取り組むうちに、これは「誰もがすべきこと」と気づき、皆さんにもお勧めしてきました。
今では、多くの友の実現(思いの現実化)に貢献できたと自負する一方で、収拾が付かなくなってきたのも否めません。
そこでこの度、自身の様々な実現支援活動を一元管理するとともに、皆さんにも利活用していただくため、活動そのものを会員制にいたします。
皆様からのお問い合わせをお待ちしています。