勧めたい合併

合併(がっぺい)とは、法定の手続に従って、複数の法人その他の事業体が一つの法人その他の事業体になること。
一般的な意味での「合併」は平等な条件や規模での結合を示し、両者に差が大きくある場合は合併とは呼ばずに、吸収や買収などと表現されるが、買収との違いは法人格の消滅を伴うことにある。
営利ビジネスにおいては、事業拡大や再構成などの手法とされてはいるが、あくまで存続のための消滅を伴う最終手段に違いない。
また、自治体などの統廃合に相当し、明治22年7万以上あった集落(自給自足単位)が、町村合併を繰り返すことで現在約1700まで減少し、さらに総務省は1000を目指している。
これまで起業という「始まり」の支援に取り組んできた僕にすれば、消滅を意味する合併はその逆の「終わり」を意味し、決して推奨することは無かった。

ところが先日、ある法人の代表から、こんな相談が舞い込んだ。
個人や団体の総務・経理にまつわる様々な雑用を請け負う便利屋稼業を営んできた彼が、福祉関係の人材派遣に取り組む法人の運営に携わるようになり、その経営を立て直し、高齢化した依頼者から代表者の役割も引き継いだ。
法人は不採算部門からの撤退や、内部体制の整備により、経営は安定したものの、成長や拡大を前提とする事業でなく、だからこそ門外漢の彼でも継承できた。
彼の眼から見れば、むしろ同様の悩みを抱えた類似法人が周囲に多数存在し、それらの存続支援の必要性を痛切に感じているという。
そもそも彼が営む便利屋稼業とは、組織運営に必要な雑用係を雇用できない規模のビジネスを対象にする、雑用処理の集約業なのだから無理もない。
そこで頭をよぎったのが、先ほどの「合併」で、小規模事業の存続のために顧客を統合する合併を提案する便利屋が居ても面白いとひらめいた。

これまでの僕は、独立性が失われる合併をさげすみ、忌み嫌ってきた。
2つの組織が1つになるのは、1つが消えることを意味している。
でも、もしも2つの組織が2つのまま合併し、互いの不足を補いながら独立性が維持されるなら、僕には何の不満もない。
かつて倒産した自分の会社を再生した際も、複数の株式会社が合併せず、持ち株会社(ホールディングカンパニー)を新設するやり方で、経営の独立を守ったまま企業グループの所有のみを一元化した。
さらに今年、僕はこれを応用して複数の任意団体を一般社団法人の事業部門に吸収した。
笑恵館クラブと名栗の森オーナーシップクラブを一般社団法人日本土地資源協会の事業部門に位置付けると同時に、それぞれの代表者(所有者)を法人の社員に迎え、各事業部門の担当理事に就任していただいた。
こうすることで、2つの事業の会計処理と税務処理を一元管理できるとともに、相互の交流など相乗効果も期待できる。
さらには今年度より新プロジェクト「ふきの庭倶楽部」を立ち上げたが、わざわざ新規の規約や構成員を集めるまでもなく、担当理事(所有者)さえいれば事業は即座に立ち上がる。
かつて、法人税や労務負担を割り勘にする「シェア法人」という仕組みを考案し、個人事業者が集まる商店街や、専門業種のコミュニティに提案したことがあったが、これは個人事業者の独立性を阻害しない法人化という訳だ。

合併という概念は、たしかに部分的な消滅を伴うことで「存続という独立」に反するが、消滅する部分こそが独立に寄与するなら、むしろ歓迎したいと僕は思う。
つまり、「何を消滅させるか」こそが肝心であり、消滅を否定する必要はない。
例えば、複数のリーダーや部門・役職などの重複は、容赦なく整理統合して構わないが、まったく同様の業務を行う町村合併により地名が失われたり、農協の合併によって農産物の地域ブランドが消滅するのは許しがたい。
こうした、望まない消滅は何としても防ぎたい。
そのために、常に現状を「分割すべきことと統合すべきことが混在している状態」と認識してはどうだろう。
そして、分割すべきことを分割し、統合すべきことを統合する、それこそが独立を構築する方法に思えてきた。

話は飛ぶが、受精した1つの卵(卵細胞)を思い浮かべよう。
1つの卵は、DNAのレシピに従って2つ4つ8つと分解を繰り返し、万、億、兆と増えていく。
だが、それと同時に様々な目的を持つ臓器や器官を形成し、やがて全体として1羽のひよこに収斂する。
なぜ僕が独立にこだわるのかというと、全ての存在は常に1(いち)であり、個も全体も1だから。
だが、およそすべての存在1は、それだけでは存在できず、それらの全体に属している。
ここでおよそと言ったのは、それだけで存在できる究極の全体は想像もつかないと同時に、これ以上分割できない究極の小さな存在についても分からないから。
なので全ての存在は、「究極の個」が形成する「究極の全体」の中の「1部分」という1だろう。
一人の人間が伴侶を見つけて夫婦になるのは、結婚という合併で、片方の姓に統一することでまさに氏名の統廃合が行われる。
すべての存在が、何かに属し何かから独立する「部分」である以上、この「統廃合問題」から逃れることはできないのかもしれない。

話を合併に戻そう。
はじめに述べたように、合併とは「法人その他の事業体」が1つになることを指し、人やひよこは「合併しない」。
だがそれは、人は同棲、結婚、合体など様々な形式で1つになるが、それらを決して「合併と呼ばない」という意味だ。
また、合併とは2つの水滴が1つにまとまるようなイメージだが、実際には組織の名称や事業の仕組みなど非物質的な統合統一を意味している。
そこで、僕が合併に対して抱く否定的なイメージを打破するには、これに代わる言葉が必要だが、それを既存の言葉から探す試みがこのブログだ(今回に限らず)。
個人事業者が法人化によって発生する事務を割り勘でシェアする「シェア法人」や、日本国内の土地を資源化したい人々のために設立した「日本土地資源協会」などがその例だ。
その流れで今回の提案を名付けるなら。世田谷区内で訪問支援に取り組む団体の運営事務を集約する「世田谷訪問支援ネットワーク」とでも名乗れば、賛同を得ることができるだろうか。
先日の相談に対し、今日はこんな答えを伝えたいとの思いに辿り着いた。