コメとカネ

ローマ教皇逝去のニュースが世界を駆け巡り、このブログでも取り上げたばかりの映画「教皇選挙(コンクラーベ)」が、あまりにもタイムリーだと評判だ。
先日の大河ドラマ「べらぼう」で、古老の松平武元(石坂浩二)が老中の田沼意次(渡辺謙)に対して「カネはコメのように食えもせぬ」と苦言を呈す場面が話題になっているようだが、これもトランプ関税がもたらした通貨危機と、昨年来の米不足騒動を連想させる。
そもそも、どちらもが歴史を題材にしたドラマなので、それが現実と符合するのは当然あり得ることだが、こうした知的娯楽が現実問題への注意や関心を喚起することは、注目に値する。
過去の出来事をストーリー化して楽しむことが、現実社会を楽しく読み解く手掛かりになることが素晴らしい。今日は、この「カネとコメ」のやり取りを手掛かりに、現実社会を使って遊んでみたい。

かつて、石川県羽咋市で古民家承継に取り組んだ際、石川県下最大の面積を誇る「世界農業遺産」神子原(みこはら)の棚田を事業化した農業法人で、神子原地区の農家ら131人が出資して設立した農業法人「㈱神子の里」を尋ねたことがある。
このエリアを管轄する当時のスーパー公務員Tさんが、「神の子の住む原っぱ」と書く神子原のコメを、神の子=イエス・キリストに仕える人物―ローマ教皇宛てに手紙を書き、「イタリア半島を逆さまにすれば能登半島と形がそっくりです」と関わりを説明し、「あなたに米を召し上がってもらえる可能性は、1%でもないでしょうか」と手紙で問いかけた。
これが奏功し、神子原米の献上に成功したことで全国的に注目を集め、ブランド化と農村の活性化に成功したかに見えた。
だが、皮肉なことにこの法人の社員10人のうち地域の農家はわずか2名で、残りは企画・営業・流通・販売など農作業以外に従事する。
つまり「農作業≠農業」という現実が、当時の僕に突き付けられた。

やがて地主の学校執筆にとりかかると、そもそも土地所有という言葉が存在せず、領民が領主から徴収される税としての年貢のうち、米や作物を収穫する土地の割り当てだったことを知る。
コメがカネの役割を担うので、コメを生み出す土地はまさにカネを生む「資産」となり、農家は耕地から収穫した年貢を納税する組織(家)として継承されてきた。
また、家臣が大名から、もしくは大名が幕府から領地を与えられ領主となることを所有でなく知行(ちぎょう)と呼び、徴収された年貢米や物納品から領地を持たない武士(家臣)に俸禄として支給された。
余談だが、士農工商という身分制度はわが国には存在せず、現代の教科書からは一切削除されている。
苗字帯刀などで分離が進められる江戸時代以前には、士農の区別は曖昧だったり、実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べたり、また「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。
この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかったし、百姓は農民だけでなく職人や運送業など様々な職種を含む「何でも屋」だったらしい。

おっと、面白いのでどんどん脱線するが、これくらいにしてコメとカネに話を戻そう。
とかく僕たちは、日本は明治維新で劇的に変化したと思いがちだが、「べらぼう」に描かれる江戸時代中期を見ると、決してそうではないことがよく分かる。
もちろん、当時の人々にしてみれば、青天の霹靂のような事態が日々起こり続け、大きな転機となったことに異論はないが、振り返ってみれば、全てはすでに起こりつつあったり起こるべくして起きたことばかり。
明治維新が起きた19世紀後半の100年前、18世紀後半の物語と考えれば、昭和100年に当たる今年から見る昭和初期の物語だ。
そんな時代の政治の中枢で交わされた言葉「カネはコメのように食えもせぬ」が妙に刺さるのは、この問題がそれから250年を経た現代もまだ、解決していないからだと僕には思える。

カネについても、問題は深刻だ。
経済の成長とか、価値の増大と言うけれど、それらすべてが金額で示されていることに僕は疑問を禁じ得ない。
値段が上がる要因は様々あるが、需要の高まりや価値の高まりなどすべてが連動しているかのような錯覚が恐ろしい。
例えば、リンゴの価値は同じでも、それを求める人が多ければ需要が高まり価格が上がる。
この時価格を釣り上げるのは、リンゴでなく買い手の方なので、両者をつなぐ仲買人が一番儲かるかもしれない。
さらに現実には、おカネの量が増えれば価値が下がって値が上がるインフレなど、おカネの事情(金融)で価格が変化する。
消費者の利益と生産者の報酬の等価交換・・・という経済の原点は、カネという仕組みで歪められる一方で、その歪みという利ザヤで多くの人が生きているのが世界経済の現実だ。

結局のところ、コメで動いてくれるのはヒトだけなのでこれを人件費と捉えると、コメとカネの違いは人件費と外注費の違いに似ている。
人件費だけで動いた世界が、あらゆる業務で動く世界に変化した結果、経済はヒトを越えて機械や情報などを使って飛躍的に拡大したが、今やAIの登場により、ヒトの削減が加速している。
ヒトが生産者と消費者になることで成立してきた経済が、生産者の地位を奪われた消費者として生き延びられるのか、そんな疑問が湧いてくる。
だが、その変化は人類にとって初めてなのか、そうでないのか。
僕はそれを見るために、それを見る目を持つためにも、それを知りたいし、気づきたい。
目先の課題に近未来の解決策をこじつける刹那的な生き方でなく、250年前に生まれた課題に挑み続ける長い歴史の一幕を担いたい。