
僕は、何事も様々な角度から見ることを推奨している。
世界を主観と客観に分類し、更に主観をなぜ・何・どうやって、客観をいつ・どこ・だれに分割するのは、決して世界を細切れにするのでなく、様々な角度から捉えようという提案だ。
これは方向に例えるなら、上下・左右・前後と同じことで、どの方向から見ようとも、決して対象物を切り刻む訳でなく、「こう見えるからこう思える」と意見を述べるだけのこと。
なので、もしも上下や左右から見た議論だけに終始するなら、あえて前後から見た議論を投げかけるのが僕のやり方だ。
前から見れば後ろ=過去が見えて、これまでのいきさつや理由の話になるが、後ろから見れば前=未来が見えて、これからのやり方や目的の議論になる。
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いきなりこんな話から始めたのは、先日のNHKスペシャル「未完のバトン」という番組を見たせいだ。
なにしろ「誰も見たことのない現場」「誰も聞いたことのない証言」「超一級の資料」というドキュメンタリーの原点に立ち返るシリーズ・・・と銘打ったこの番組に少し身構えた僕にとって、「第1回 密着 “国債発行チーム”」はあまりにも衝撃的だった。
その内容はこんな感じ(NHKサイトより)。
様々な公共サービスを支える「国債」。
去年、日銀が金利の引き上げや国債買い入れの減額方針を示し、歴史的な岐路に立っている。
番組では国債の発行・立案を担う財務省国債企画課に密着。
官僚たちは国内の機関投資家の動向を探るほか、中東に飛び、海外勢にも投資を呼びかけている。
一方で財務省には「経済・財政の運営が間違っている」という不満も向けられている。
国債をめぐる知られざる現場からこの国の未来を見つめていく。・
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まず前から見て振り返ると、赤字国債の発行は禁じられており、例外的に建設国債の発行だけを認めていた。
しかし、1965年度の補正予算で赤字国債の発行を1年限りで認める特例公債法が制定され、赤字国債が戦後初めて発行された。
1975年度以降は1990年度から1993年度までを除き、ほぼ毎年度特例法の制定と赤字国債の発行が恒常的に繰り返される自転車操業に突入した。
さらに2011年度からねじれ状態となった国会では、法案審議が大幅に遅延したために年度末に資金ショートした地方自治体が銀行からつなぎ融資を受けるなど、東日本大震災の影響も相まって、財政は混乱状態に陥った。
そこで、2012年度法案は修正されて法律の期限を2015年度までの3年間、2016年度と2021年度の法案はそれぞれ5年間とすることで、赤字国債発行の許容幅をズルズルと広げている。
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次に現状を後ろから覗き込むと、更に恐ろしい未来が見えてくる。
まず、歳入と歳出の総額はそれぞれ115兆円で過去最大だが、その内の国債費が収入(建設国債を含む)が約28.6兆円に対し、支出(返済と金利)が28.2兆円とわずか0.4兆円の収入に過ぎない。
つまり、赤字を埋めるためのはずがほぼすべてを返済に回しており、“様々な公共サービスを支える「国債」”という説明が、虚しすぎる。
さらに、番組が紹介する衝撃は、国債による収入(追加発行)は確かに28.6兆円だが、実際に発行する国債は170兆円を超えるという。
国債には個人向けに変動10年、固定5年、固定3年の3種類があるほか、市場で取引される様々な利付国債があり、これらが順次満期を迎えた分だけ新規に発行する必要が有る。
これまで「日本の国際」と言えば、最も信頼度の高い金融商品だったので、発行すればたちまち完売したかもしれないが、今や発行したものの、これを売りさばかなければならない様子が、この番組の見どころだ。
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僕の友人AK君が立ち上げた、国内の独立系最大の投資ファンドK社でさえ、調達資金は最大2兆円規模だったし、世界最大の投資機関と言われるGPIFが運用する年金基金でさえ約170兆円というのだから、それと同規模の債券を販売するなどとんでもない話だ。
官僚たちは国内の機関投資家の動向を探るほか、中東に飛び、海外勢にも投資を呼びかけて・・・というのだが、はっきり言って完売など絶望的だ。
だが、全ての政治家や官僚たちが「発行」という言葉を使う限り、「完売」が前提であることは明白だ。
もちろん、財務省国債企画課がこの密着取材を受け入れたのは、この実態を開示するために他ならない。
だが、誰一人として「国債が売れなかった場合」を語ろうとせず、「売るための方法」についての考察や意気込みだけが語られる。
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前を見て何かをやろうとするとき、そこに成功と失敗の分かれ道があれば、誰もが成功の道を行きたいと思うだろう。
成功を右、失敗を左とするならば、左を見る人は悲観的と嫌われるかもしれない。
だが現実には、成功する人はごく一部で大多数が失敗する場面は数知れない。
多くの人が右を見るならばなおのこと、左を見る人が居た方が良いと僕は思う。
かつて自分の会社が潰れそうになった時、「会社が潰れたらどうなるか」という書籍が見つからずに愕然としたことを思い出す。
たとえその選択肢が目の前に有ろうとも、それを見ようともしない人に限って、後で「想定外」と開き直る。
想定とは、決して高度な知見に基づくコトでなく、上下、左右、前後など、そこに有るモノやコト全てを直視することに過ぎない。
そして自分一人でなく、そこにいるより多くの人々の目を使い、更には耳や鼻などすべてを使ってみて感じることだと僕は思う。
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意見とは、自分の考えの時もあるが、自分からどう見えたかを意味することもある。
それが上からの俯瞰なら、上から目線とそしられたり、下から見上げると卑屈になるなと叱られる。
だが、何事もフラットな目線で・・・などという指摘は、視点を絞り視野を狭める愚策に過ぎないと僕は思う。・
疑うとは信じないことでなく疑ってみることだし、想定とはあらゆるもしもを考えてみることだ。
この「みること」を「見ること」に例え、あらゆる場所に「眼」を取り付けて、何が見えるか考える。
目の付け所とは、何を見るかだけでなく、どこから見るかを考えること。
「どこから見たら世界はそう見えるのか?」と考えると、いかなる意見にも興味が湧いてくる気がする。