
今日も責任について考えたい。
先回は、「遂行(やり遂げる)責任」、「説明(結果に対する)責任」、そして「賠償(損害に対する)責任」という行動に対する一連の責任の分類について考察したが、今日はもう少し掘り下げたい。
まず、これらは一体誰の誰に対する責任なのか、
遂行が、命じられたことを成し遂げることだとすれば、その責任は、命じられた人が命じた人に対して負うことだ。
説明が、遂行の理由や経緯に関するものならば、その責任は遂行した当事者が周囲の関係者に対して負うことだ。
そして賠償が、遂行がもたらした損害を償うことならば、その責任は遂行を命じた人が被害者に対して負うものだ。
だが今日の僕は、これらすべてに疑問を呈したい。
なぜそんな責任を負わなければならないのか、もしも負わないとどうなるのかについて考えたい。
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遂行には、他人から命じられる場合と自分で宣言する場合の2種類あって、前者を遂行責任あるいは請負責任というのは理解できる。
つまり、頼まれたことをやる代わりに報酬を得る双務契約なのだから、遂行しなければ報酬を貰えないという意味で、「責任」は「無報酬リスク」を意味している。
同様に、説明責任は「説明という手間のリスク」、賠償責任は「賠償という負担のリスク」と考えることもできるので、責任は「負のリスク」を意味する言葉と言えるだろう。
「責任」の追及に明け暮れる社会や会社を見るにつけ、「責任」という概念がいかに秩序と服従の仕組み構築に寄与してきたかがよく分かる。
たった一人のスケベな男が女性の弱みに付け込んだだけで、その責任問題の連鎖反応が巨大な渦となり、1億人の人たちが嘆き憤る問題となること自体、僕らはこの「責任」に支配されつつある証だ。
責任を取りたくないばかりに、仕事に精を出し、失敗を回避し、損失を与えないように努力する。
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先ほど「賠償責任は命じた人が負う」と言ったが、組織では決裁者や任命者がこれに当たる。
部下が起こした不始末の対外的な責任は、全て最高責任者が負うことが世間の常識だが、これこそが支配構造の典型であり、組織に守られていると喜ぶ部下たちはぶら下がりの家来に過ぎない。
「ほとんどの人間は実のところ自由を欲しがっていない。 なぜなら自由には責任が伴うからである。 ほとんどの人間は責任を負うことを恐れている。」とは、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトが残した言葉だが、ここで言う「自由」とは「自分の由(よし)」で決めること。
人々は責任感を美徳として教育され、リスクやチャレンジを悪と捉えるように仕向けられている。
確かに、責任を負わない無責任を安易に許容すべきではないが、成功を美化する責任論には根本的な疑問を感じる。
ジェンダー然り、ハラスメント然り、日々変化する価値観に基づく善悪や正誤など、時代を越える規範にすべきではないと思う。
もっと言えば、自由を縛る責任そのものにさえ、僕は抗いたい。
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そこで、無責任はなぜ悪いのかをあえて考えてみよう。
ここで言う無責任とは、遂行しない、説明しない、賠償しないことを指すが、現実には遂行できない、説明できない、賠償できないことだらけ。
もちろん社会は、こうした無責任を犯罪と定義して、刑罰を加えてはいるものの、常に新手の無責任が現れて、いたちごっこが続いている。
かつて僕が会社を潰したとき、多額の借金を踏み倒すことが犯罪になるのか調べたが、少なくとも日本では刑事犯罪には該当せず、民事責任だけが追及される。
そして、民事責任には時効制度があり、借金は5年、保証債務は10年で時効となるので、僕は約30億の保証債務があるものの、返済はもちろんのこと自己破産もしていない。
もちろん僕は30億を踏み倒すつもりはないが、バブルで踊った金融機関でなく、広く社会に還元したい。
それが僕の勝手な、自由な責任だと思っている。
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一方で、これまでの責任には対処すべき相手が必ず存在するが、相手のいない「自己責任」とは何なのか。
遂行を命じたのは自分なら、失敗しても謝罪相手はいないし、賠償など気休めだ。
そこで試しに辞書を引くと、少なくとも広辞苑には見当たらないし、英訳してもself-responsibilityというそれらしい言葉があるだけだ。
どうやら、他人のせいにできない「自業自得」の言い換えで、出自の怪しい言葉だが、現代社会において極めて頻繁に使われる言葉と感じるのは僕だけだろうか。
この言葉に関しては、考察したいと思えないし、むしろ「危険な常識」を醸成するリスクを警告したくなるだけだ。
なのでもう一度「自由と責任」を振り返りたい。
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もしも「責任」が、「自由」と対を成す必須概念だとすれば、この「責任」こそが「自由」の理解に欠かせない。
そこで、試しに先ほどの3つの「責任」をつかって、「自由」を説明してみたい。
「遂行責任」から想起される「有言実行」という言葉は、自ら宣言することで覚悟をかため、遂行できなければ恥という罰を課すことを意味している。
「説明責任」はそもそも日本語に語源が見当たらず、自由に対してはむしろ「有言実行」に「事前説明」として含まれて、事後説明は次の賠償責任に含まれそうだ。
そして「賠償責任」は「賠償能力」に限定され、先述の通り倒産した僕は、会社の破産分に加え保証債務の30億も弁済できずに踏み倒した。
だが僕はこの経験から「責任」は「できる範囲でしか負えないこと」と、「それさえ負えば自由を得られること」を会得した。
「自由が責任を伴う」のでなく、「責任を果たすことで自由が生まれる」のだ。
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僕は今、とある「火中の栗を拾う」案件に関わっている。
「火中の栗を拾う」は、フランスの詩人ラ・フォンテーヌの『寓話』にある、猿におだてられた猫がいろりの火の中の栗を取ろうとして大やけどをしたという話で、絵は英国にそそのかされて栗(朝鮮)を焼いているソ連を攻めた日本を描く風刺画だ。
・おだてに乗って、人のために危険な仕事に手を出すこと
・自分の利益にならないのに他人のために危険を冒すこと
の2つの意味で用いられているようだが、僕は後者の意味を込め「あえて火中の栗拾い」と銘打って、この案件に挑みたい。
それは、誰もやりたがらない「あえて責任を取る責任者」の役割で、結果的にうまくいかないかもしれない。
でも、「誰もやりたがらないこと」と、「うまくいけば痛快なこと」だけで、僕には十分なやる理由になる。
「責任こそがチャンス!」をお見せしたいがために、僕は喜んで火中の栗を拾おうと思う。