
今、アマプラのテレビドラマ「三体」にハマってる。
シリーズ累計発行部数が世界で2900万部、国内で85万部を記録した、中国のSF作家・劉慈欣のベストセラー小説「三体」の実写版だ。
コペルニクス的転回を含みつつも、その壮大な世界観は、同時にハマっているアニメ「チ。 ―地球の運動について―」を遥かに凌ぐ。
人類史上根源的で宇宙規模の問題を全人類の存亡をかけて描く、壮大な人間・空間・時間の物語だ。
タイトルである「三体」が示す「三体問題」は、難解というよりはまるで理解を越えていて、誰も寄せ付けないと思いきや、その難しさにこそ魅了され、夢中に考える自分に気付く。
分からない心地よさは、分かりたい欲求を生み、分かった時の快感が更なる疑問を許容する。
僕にとって、分からないループは苦痛の連鎖でなく、どこまでも続く幸福のらせん階段だと実感する。
そこで今日は、分からないの魅力から始めて、どこに辿り着くか語ってみたいと思う。
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分からないものの代表と言えば、「真実」と「自然」かな。
「真実の追求」とか、「自然の探求」とか、まさに分からないものならではの言い方だ。
「真実(本当のこと)」は必ず有るはずなのに、実際に見たり聞いたりした証人や、それを立証する証拠が求められる。
つまり、証人でもなく、証拠も持たない人には、「真実」は分かり得ないことになる。
一方、「自然(有るがまま)」もまた世界を埋め尽くしているのに、その理由や目的、仕組みなど分からないことだらけ。
そもそも人が関わることを「不自然」と言う位だから、人が「自然」を理解できるはずがない。
結局人は、自分の事しか分からないので、分かる人をあてにする。
それを神と崇めることから、宗教は始まったのかもしれない。
つまり、我々にとって神とは「分かった状態」を意味するのか。
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だとすれば、「分かりたい」という思いは「神になりたい」という願望か。
恐らく大多数の人がそうではなく、「分かるという終わり」に辿り着きたいだけだと僕は思う。
「終わりたい」という願望の多くは、「〆切に間に合わせたい」という願望だ。
すべての人は、死という最期に向けて、様々な〆切と向き合っている。
それは、基準や障害を乗り越えることで、選ばれたり、認められたり、許されたりできる〆切だ。
これらの終わりにたどり着くには、「分かる」よりも「教わる」方が確実なのだろう。
だが、僕にとっての「分かる」とは、新たな疑問に気づくことなので、「分からない」の魅力とは、「分かるまで終わらない」ことにある。
つまり、「分かる」は「終わり」ではないし、終わりたいとも思わない。
むしろ、自分が死ぬ瞬間に山ほど疑問を抱え、それらを誰かに託し、その答え探しが続くことを願いながら最期を迎えたい。
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では、「分かる」とはどういうことだろう。
それは、再現できること、まぐれでなく再度実現できることだと僕は思う。
我々はそうやって生き残った(存続)し、そのために進化(変化)をしてきた。
この順番は大切で、進化するために生きてきたわけではない。
「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」は、2015年の国連総会で全会一致で採択された「我々の世界を変革する 持続可能な開発のための2030アジェンダ」という文書の一部だが、これは「持続可能な開発」が目的化されている。
つまり、全ての開発から「持続可能」だけを選別したに過ぎず、「持続必須」からほど遠いまやかしだ。
「存続のためなら手段を択ばない」からは程遠い、人間ファーストの目的だ。
トランプ大統領が唱えるアメリカファーストが世界に対する利己主義なら、人間ファーストは地球に対する利己主義だ。
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「三体」は、三つの太陽を持つことで「三体問題」と対峙する地球外生物の目線で地球と向き合う物語だが、作者の劉慈欣氏は紛れもない地球人類だ。
故郷を失い地球に向かう三体星人は、地球人を滅ぼしたいのか、共存したいのか、それとも。
いよいよ物語は、彼らを主(神)と崇めその到着を待ち望む人間たちが、「降臨派」「救済派」「生存派」の3派に分かれて絡み合う。
すでに僕は、虫けらのように生き残る「生存派」さながらに、「存続最優先」の道を歩んでいる。
誰もが「自分」の生き残りを求めるのは当然だが、僕はそれを「自分達」に変えていきたい。