現地に行こう

発災からまる1年、「令和6年能登半島地震」の被災地を訪れた。
新年度の仕事始めに際し、「能登はいかがでしたか?」との問いにはきちんと答えたいのだが、様々な思いが沸き起こって来るので、今日はそれを書き留めながら頭を整理したいと思う。
そもそもの始まりは、昨年5月NPO法人HOME-FOR-ALLの事務局長を退任し、監事に就任したことから。
能登半島地震の被災地に「みんなの家」を作ろうという機運が高まって、松村は即刻監事を退任し、運営コーディネータとして8/23~27現地に赴いた。
その後9/23に能登で豪雨災害が発生したので、9/29~10/1に支援物資を持参して、現地の状況を確認して廻り、11/18にはリリース情報を発信した。
https://www.home-for-all.org/blog/2024/11/18
そして今回1/3(金)~5(日)の3日間、カミさんと一緒に家族旅行として奥能登をレンタカーで周遊した。
現地に行って知るべきこと、行かなければ分からないことをあなたとも共有したい。

まず、今回の訪問で最も印象に残ったのは、海沿いの周回道路がほぼ開通したことだ。
特に能登半島の外浦(北)側は、地盤の隆起と斜面の崩壊により海沿いの道路が寸断された上に、山中の道路も大雨による洪水や土砂崩れによって寸断され、奥能登の道路網はズタズタになっていたが、今回の訪問では正味2日間でほぼ2周スムーズに巡ることができた。
ただ、昨年末にようやく開通した海沿いの土砂崩れ部分では、せり出した土砂部分を避けて隆起した元海中部分を大きく迂回したり、土砂を登って乗り越えたりと、まるでジェットコースターさながらの道だった。
地球から見れば、かさぶたの剥がれ程度に過ぎない地殻変動に翻弄される人間のちっぽけさを実感したが、立派な構造ほど壊れると直すのが大変で、功罪相半ばするとはこのことかと思った。。

次に感じたのは、現地で知り合った活動家の皆さんが、この震災が地域社会と深く関わるきっかけになったこと。
縁あって10年前に東京から深見町に移住して、築110年の古民家でスローライフを楽しんでいたというSさんは、被災まで住民たちとの交流はほとんどなかったという。
だが、孤立した集落を見捨てて自分だけ避難したら、その後の平穏が取り戻せないと思い至り、自衛隊ヘリによる全町避難を呼びかけた。
(詳しくはこちらhttps://corecolor.jp/11665)
「みんなで非難したからこそ、みんなで戻ろうという話ができる」と、深見を稼いで暮らせる「戻れる町」にするために、Sさんの奮闘は続く。
僕は(みんなの家PJTで)能登を訪れると必ずSさんを訪ねることから始めるが、今回は拠点の旧深見小学校に二晩泊めていただいで、ここから各地を訪れた。

2日目は深見から海沿いに珠洲市の大谷→狼煙(のろし)→鉢ヶ崎→飯田(珠洲市街)→能登町の宇出津→鵜川と一回り。
正月なので、現地の関係者には「勝手にお邪魔したのでお構いなく!」と連絡しながら巡っていると、大谷のMさんから「1/5に餅つき大会やるので、仮設の集会所に来て下さい」と返事があった。
そこで3日目は珠洲市大谷の仮設住宅にお邪魔すると、餅つきを仕切る忙しそうなMさんが居た。
ようやく人心地(ひとごこち)付いた頃、フランス人のご主人と二人のお子さんを交えてお餅を頂きながら話をすると、何と彼女が大谷に住み始めたのは2年半前で、震災をきっかけに地域の友人がたちまち増えて、「NPO外浦の未来をつくる会」を立ち上げたという。
「みんなの家PJT」をきっかけに知り合った僕は、このNPOの法人化をサポートするうちに、Mさんから頼まれて監事を引き受けたのだが、そんな「よそ者が混ざって当たり前」という空気にそこは包まれていた。

深見町のみんなの家は、残念ながらN財団の助成金に不採択となってしまったが、今後も息の長い永続的な連携を確認した。
するとSさんが「生き残ることの重要性」について語り出した。
震災をきっかけに地域や住民に対する思いや思われる実感が強まったり、復興に取り組む苦労や失敗までもが喜びにつながるが、すべては「あの時死なずに済んだこと」から始まっている。
いつ何時起きるか分からない災害に対し、「防いだり備えること」や「復旧し復興すること」も大切だが、死んでしまったらお終いでその瞬間を生き抜くことが「前提」だ。
自分自身が被災するまではそんな風に考えもしなかったので、被災していない人は誰も考えていないかも。
「自分が気付いた」ということから、「誰でも気づくだろう」と想像せず「誰も気付いていないかも」と疑うことをSさんは力説する。

話を本題に戻そう。
現地に行って知るべきこと、行かなければ分からないことを共有したい。
今回僕が現地に行ったからこそ知ることができたのは、生死にかかわる被災者Sさんの思いだ。
多くの方が亡くなっているのに、生き残った喜びを語って良いのかと思う僕は傍観者であり、生き残った当事者はその良し悪しでなく、前提として断言する。
そりゃそうだ、死んでしまえばそもそも悔やむ事すらできないだろう。
だが例え、自明の当たり前であろうとも、身近な死者のいない傍観者が生存の喜びを語るのは憚れる。
そこには、言いたいけど言えないこと、訊きたいけど訊けないことがたくさん存在する。
だが、言わなければ伝わらない、訊かなければ分からないことだらけ。
これを乗り越えるには、現地に行き、当事者と会うしかなく、共有には、人間・空間・時間の全てが必要だ。
だから先ず、あなたに会いたいし、良し悪しはその後だと僕は思う。