今日12/22(日)は、世田谷の「日楽庵(ひらくあん)」から「メゾンふき(蓮沼のシェアハウスPJT)」への引っ越し日。
さすがに今年3回目の引っ越しとなると、手慣れたもんだ。
軽のワゴンをお借りして、積み込み30分積み下ろし30分の、合わせて1時間程度で完了した。
前回「メゾンふき」から「日楽庵」に引っ越して来たのが10/9(水)だったので、「日楽庵」で暮らしたのはわずか2か月半程度に過ぎず、荷物は衣類と仕事道具だけに割り切った。
とはいえ、「メゾンふき」はリフォーム工事に着手するため、気軽に忘れ物を取りには戻れず、2か月半の旅行に出かけるような体験だった。
年の瀬に向けてばたばた引っ越しをしたものの、すでに発送した年賀状には去年と同じ住所に「引っ越しましたが、住所はこちらで↑」と書き添えた。
そこで今日は、これにちなんで「引っ越しとは何か」を考えたい。
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そもそも僕の引っ越し歴は、1964年から始まった。
江東区亀戸6丁目に住んでいた僕は、小1の夏休み明けに家族全員で世田谷区粕谷に引っ越して、甲州街道を走るアベベを見た。
中学から電車通学、大学にはマイカー通学で半分泊まり込み状態、そして設計事務所に就職後はバイク通勤で寝に帰るだけとなってしまったが、あくまで拠点は世田谷の自宅で、そこには趣味や遊びの道具や資料が貯めこまれ続けていた。
そして25歳で結婚して、新宿区若松町の木賃アパートに小さな新居を構えたが、実家の自室には大量の荷物を残したままだった。
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翌年めでたくカミさんの妊娠が発覚すると、貧乏所帯が維持できない所に実家からのラブコールが重なり、ついに世田谷実家での多世帯同居が始まった。
実家はRC打ち放しの小さな母屋に増改築が繰り返され、我世帯には2階の過半が提供されたので、僕の私物に加え新婚所帯の家財全てを詰め込んで、カミさんも無事出産して4世代同居が始まった。
だが、建築士免許取得を機に起業独立を思い立ち、設計事務所の辞職理由を模索する中で、「父の会社に就職」という「悪魔の奥の手」を思いつき、28歳の春から渋谷に有った父の会社に転職。
でも結局、毎朝父と一緒に出社する車通勤に耐えられず、29歳で横浜の日吉に「小古家」を購入して再別居を実現した。
そしてこの時、僕が廃棄したつもりの子供時代の写真、絵、作文、テスト、その他想い出の品々は、ちゃっかり母の所蔵品となる
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以来36年間、僕は横浜市内に住所を持ち続けたが、初めの5年は購入した延床14坪の「小古家」で楽しく暮らし、その後8年は手狭になった「小古家」を賃貸して、たまプラーザで戸建てを借りて渋谷に通勤した。
そして1999年、42歳の時に父の会社が倒産して僕と父はいきなり30億の借金を抱えることになり、ひとまず我が家は家族の職場学校への利便性を考慮して、保証人の要らない日吉の公団住宅に入居した。
RC造団地の中間階は風通しや日当たりが良く、隣戸に囲まれているので冷暖房もほぼ不要で、鍵っ子状態の息子たちも安全な、人生唯一の団地暮らし経験となった。
2004年からは、カミさん家族からの要請もあり、横浜市緑区の「カミさんの実家」での同居が始まった。
2005年には僕も再建した建設会社を卒業し、世田谷ものづくり学校勤務を始めたので、田園都市線ルートへの転居は好都合だった。
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ついに建設業と縁を切った僕は、早速実家にて「株式会社なのに」を設立し、「カミさんの実家」近接のアパート1室を借りて「分室(作業所)」を開設した。
2011年東日本大震災を機に、起業する家(アントレハウス)の設立を思い立ち、駒沢に事務所を借りて「分室」を閉鎖し、その資機材を移動して「アントレハウス駒沢」を開設した。
その後、2014年に「アントレハウス駒沢」を閉鎖して、その資機材を活用して「笑恵館」をオープンした。
こうして振り返ると、様々な転機は合ったけど、常に家族と共に暮らしてきた僕にとって、結婚こそがその家族を拡大する最大の転機だったし、その意味では「カミさんの実家」を飛び出して一人暮らしを始めることが、またまた僕に大変化をもたらした。
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一昨年の11月から笑恵館202号室で一人暮らしを始めたら、翌昨年3月に102号室の入居者が退去してしまい、人気のない1階の募集に手こずるよりは・・・とすべての荷物を2階から1階に移動して、部屋番号だけの住所変更手続きに明け暮れた(住所変更はもうこりごり)。
とはいえ、元来一人暮らし否定論者の僕にとって、笑恵館での生活は「一人暮らし」というよりは「仕事場への泊まり込み」というイメージで、火木土日は、母と妹が暮らす「日楽庵」まで2.5kmを徒歩で通って朝夕2食を食べ、月水金は断食した。
その後バイクで事故を起こし、自身初の2か月入院を経験したが、退院後も松葉杖生活が続くため、今度は「日楽庵」に寝泊まりした。
ようやく杖も外れ独り暮らしが可能になったので、本年2月から「笑恵館」にて初めて「自炊」を開始した。
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長々と、人生の振り返りにお付き合いいただき恐縮だが、これでようやく文頭に辿り着いた。
今年5/24(金)に敢行した記念すべき1回目の引っ越しは、「笑恵館」から「メゾンふき」へ、「すべての家財」を自力で移動することだった(写真参照)。
もちろんそのためには、人生始まって以来の断捨離が必要で、自身の保管書類はもちろんのこと、カミさんの実家の残置物、日楽庵の母が所蔵する拓也コレクションなどすべてを回収し、ほぼすべてをデータ化して、紙資料を廃棄した。
余分な衣類や、イス・机・棚類はすべて譲渡して、2トントラック1台に詰めるだけの家財に絞り込んだ。
その一方で、それらの移動に必要な袋や梱包材は繰り返し利用できるよう工夫して、必要が有ればいつでも何度でも、自力で引っ越せるように考えた。
この引っ越しは、まさにこれらの集大成で、自身の壮大な実験だった。
そして、その成功は、僕に「自立」を実感させ、自信と勇気を与えてくれた。
「いつでもすぐに引っ越せること」こそが、今の僕の自慢だ。