今日もまた「地域社会の健全な発展」について考察したい。
先回はこれをググった結果のお粗末さに、ボヤキの考察を加えたが、今日はきちんと自分流の考察を展開する。
この言葉を、地域・社会・健全・発展の4つの要素で構成される概念として捉えると、「地域=空間の範囲」、「社会=コミュニティ(人間)の範囲」、「発展=時間的変化」という3つの要素に対し、「健全」という条件が添えられていると考えられる。
つまり、「どこでだれがどのように時を刻むのか」という形式の文脈において、「健全な(どのように)」はその後の「発展(時間経過)」だけでなく、「地域(どこ)」と「社会(だれ)」双方にも作用するのではないかと考える。
もちろん、この発想自体が松村流なので、この時点で「もう結構」と思われる方もいるかもしれないが、この後ちょっと面白い展開を用意しているので、もう少しお付き合い願いたい。
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僕が面白いと感じたのは、「健全」という言葉の役割だ。
「健全な」を外すと「地域社会の発展」となるのだが、これを「健全にしよう」ということは、現状が「不健全」なことを意味している。
それでは一体「地域・社会・発展」のいずれが不健全なのかと言えば、全てが不健全のはずなので、僕はまずそこから考えてみることにした。
まず、「地域」が抱える不健全な問題とは、世界が多様な世界で構成されていることに起因する格差や贔屓のことだと思う。
次に、「社会(コミュニティ)」が抱える不健全問題とは、社会に様々な人がいることに起因する差別や偏見のことだと思う。
いずれもが多様性に起因する問題だとすると、不健全な発展も多様性と関わるのではないかと僕は疑った。
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発展の健全性とは、一体何だろう。
そもそも発展という言葉に、不健全な意味は感じられない。
強いて言えば、酒色にふけったり、異性と盛んに交流することを「ご発展」や「発展家」などと言ったりする。
恐らく発展自体でなく、それがもたらす結果の是非に関する問題だと思う。
だとしたら、「発展の結果の多様性とは何なのか」が、今日見つけた僕の問いだ。
それは明らかに「成功や失敗」を指していて、それらが破たんや滅びをもたらす現状なら、明らかに「不健全」と言えるだろう。
人間の多様性が差別を生み、地域の多様性が格差を生み、発展の多様性が破たんを生むことを「不健全」と呼ぶならば、いずれもその原因を取り除くことは不可能だ。
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「現状=不健全」これこそが、この概念の出発点だ。
環境問題、格差問題、差別問題など、すべての問題がかつての正義や成功のなれの果て。
だが、人・地域・結果の多様性を絶対に否定できないなら、正義や成功の定義をひっくり返すしかないはずだ。
その試みは、言葉の上ではすでに始まっている。
人間同士がその「違い(多様)」を理由とする「差別」をなくすための「包括性(インクルージブル)」。
空間同士がその「違い(多様)」を理由とする「格差」をなくすための「独自性(アイデンティティ)」。
結果同士がその「違い(多様)」を理由とする「破たん」をなくすための「持続性(サスティナビリティ)」。
SDGs(エス・ディー・ジーズ)とは、Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略語だが、そこに定められた17のゴール・169のターゲットが、上記の3つを網羅するのは、まさに不健全な世界に対するメッセージだ。
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さてここからが本題だ。
たった今辿り着いた「結果の多様」とは、何のことだろう。
それは、当事者が結果を成功とみるか、失敗とみるかの違いを指している。
僕はあえて今、それを明確にしたい。
持続するために、やるべきことが成功で、やめるべきことが失敗だ。
ようやく人類は「自分だけ生き残ること」ができないことに気が付いた。
「自分だけが幸福で豊かに生き残ること」を「不健全」と定義した・・・のだと僕は思う。
差別を無くそうとするのでなく、差別大好きなコミュニティと差別大嫌いなコミュニティ双方を受け入れることが「包括性」だろう。
格差を無くそうとするのでなく、特徴にして補い合うことが「独自性」だろう。