今日は「寄附」の話をしたい。
僕が非営利法人による事業運営を推奨しているのは、「土地の寄付」を推進するためなのだが、この言葉に対する無理解が足を引っ張っている。
辞書を引くと、「【寄付・寄附】〘 名詞 〙金品を贈ること。特に、公共の事業や寺社などに金品を進んで出すこと」とあり、Wikiですら「寄付(きふ、英: donation)とは、金品を贈与すること。」としか書いていない。
つまり「寄附=カネやモノの贈与」と言うだけの説明なので、これではまるで「皆さん知ってますよね」と言わんばかりだ。
さらに「贈与」を調べると、「当事者(贈与者)の一方がある財産を「無償」で相手方(受贈者)に与える行為のこと」とあるので、贈与者を「あげる人」、受贈者を「もらう人」と言い換えれば、さらに分かりやすくなるだろう。
だが今度は、多くの人に「あげる方は大損で、もらう方はぼろ儲けとなり、売買の方がずっと合理的で公平だ。」と思わせてしまうだろう。
そこで今日は、これに対し明確に反論し、その先にある僕の提案を聞いて欲しい。
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まず、「寄付」が売買と違う点は、その対価が無いことだが、それは「対価=ゼロ」を意味するのでなく「対価が数値化できないこと」を指している。
「寄付」は、相手の目的に賛同し、その実現のために使ってもらうことが、その見返りとなる。
目的実現に必要な金額が明確ならば、その対価として支払うことができるが、多くの場合はそうではない。
いつ実現するか分からない夢にお金を払うのが、「寄付」という訳だ。
もしも道端の乞食に100円の施しをするならば、それは100円分のサービスを求めているのでなく、その乞食が生き延びるための「寄付」となる。
寺社で支払う賽銭も、金額の定めのない信仰心に基づく「寄付」となる。
さらに言えば、家族を養ったり、親の財産を相続するのも、広い意味での「寄付(贈与)」になる。
家族から家賃や食費を徴収したり、ご利益の無い神社を訴える人など滅多にいないはず。
このように考えると、むしろ「寄付」の方が売買よりも身近で頻繁に行われている行為だと僕は思う。
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また、「寄付」には必ず節税の話が付きまとうが、本来税金こそが対価性の低い社会への寄付のはず。
それをせずに「寄付」を選ぶということは、国や行政ばかりに依存したくない思いの表れだ。
国や行政に対する「寄付」はもちろんのこと、公益性の高い法人への寄付が免税されるのは、公益が行政を補填する機能だからと言えるだろう。
そこに目を付けた補助金ビジネスや、返礼品で寄付を釣るふるさと納税など、官と民の化かし合い(出来レース)がますます幅を利かせる中、「寄付」という言葉が汚れていって、綺麗ごととして嫌われる。
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また、売買の方が「寄付」より公平とされるのは、金銭授受による清算行為が含まれるからだ。
売買とは、モノとカネの等価交換とされているが、ここで言う等価とは、当事者双方の合意を意味している。
つまり、どんなに客観的には不釣り合いでも、当事者間の合意があれば、以後一切の不満を言わない約束が成立する。
等価交換(とうかこうかん)とは等しい価値を有するものを相互に交換することのはずだが、現実には需要と供給の均衡による合意であり、僕はこれを「清算」と呼ぶ。
希少品が高価だったり、粗悪品が安価なのは、まさに需給関係によって価格が定まるからであり、この時当事者間に生まれる独自の等価関係こそ、諸問題の清算だ。
これに対し、相続や承継では、価格や範囲を特定することなくすべてを譲ることになる。
これを一般承継(または包括承継)といい、範囲や条件を限定する売買などを「特定承継」というそうだ。
つまり、売買の価格とは、全てを引き継がない清算時に支払われる「手切れ金」と言えるだろう。
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僕が「寄付」に目覚めたのは、笑恵館オーナーYTさんとの出会いから。
ご承知の通り、笑恵館は会員制のみんなの家として、世代を超えて永続することが求められている。
その実現のために僕が思いついたのは、笑恵館の土地建物を個人所有から法人所有に切り替えることだった。
考えてみれば、いま日本中で空き家や放棄地が増え続けているのは、土地を使わない人が相続するからだ。
ならば、そんな人が相続できないよう、所有者がいつまでも死なない不死身になればいい。
そう考えた僕はYTさんと二人で一般社団法人日本土地資源協会を立ち上げて、土地建物を個人所有から法人所有に切り替えようと考えた。
自分が所属する法人に土地と建物を譲渡するということは、自分が所属する法人が自分自身から土地建物を譲り受けること。
だとすれば少しでも安価に、できれば無償で譲り受けるというのが、「寄付」の発想だ。
「寄付」をする側から受ける側への転換は、僕にとっての革命だった。
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僕が今、多くの人に伝えたいことは、まさにこの革命的な発想転換だ。
「寄附する」が「金品をあげる」を意味するため、「寄付」が「あげる側」を示すようになってしまったが、「あげる」ためには所有していることが前提で、むしろ「もらう側」の議論が必要だ。
笑恵館を「あげる」のはYTさんだが、それを「もらう」のはYTさんと僕たちであり、僕にとっての「寄付」とは「もらうこと」を意味している。
こうして、個人から複数人のチームでもらうことが、僕の提唱する「法人化」だ。
みんなで土地をもらうことを「みんなで地主」とよび、そのやり方を「地主の学校」という本にした。
「土地をもらう」ということは、「土地を下さい」と求めるのでなく、「あげたい」と求める人から「土地をもらってあげる」という提供行為だ。
妥協して「土地を売る」のでなく、納得のいく相手に「土地をあげる」ため、僕は土地所有者と共に「土地をもらってあげる仲間」を作りたい。