特別より日常

2018年2月1日、僕はfacebookで「謹賀新月」の挨拶を開始した。
その4月に61歳になろうとしていたことを思い出し、なぜか残された時間がわずかしかないと考え始めた。
当時の僕は、やけにせっかちで、多くのプロジェクトに首を突っ込みながらも、さらに新たな出会いをむさぼっていた。
せっかちになるということは、待てずに先を急ぐこと。
だが、それは傍から見た在り様で、当人からすれば、周囲の時間がゆっくり進むことへの苛立ちを意味している。
だとすれば、時間の尺度を早めることで、少なくとも周囲に対する苛立ちを解消できるのではないか。
ということで、僕は勝手に一年を一月に短縮し、自分の時間を12倍に加速してみた。

案の定、この作戦は大成功で、僕は毎月気分をリセットし、新たな課題やテーマを据えて暮らせるようになった。
これまでは、どんなに忙しかった1年でも、それを振り返った時に「あっという間だった」と感じることが悲しかったが、今は少なくとも1年は12月分のことなので、これまでの12倍生きた実感を持つことができる。
待つことに耐えられないせっかちとは、何もしないことに耐えられない性格のことなので、あっという間に時が過ぎることは許しがたい。
つまり、許せないのは「あっ」としか言っていないことで、もっとあれこれやり遂げていれば、その分不満が解消される。
すくなくとも1から12月まで、12以上のことを成し遂げることこそが、僕にとっての生きがいとなる。
僕にとっての(楽(楽しさ))とは、「何もしない楽」でなく、「苦労の末に得られる楽」のこと。
以上が僕の「せっかちの正当化」だ。

さて、こうした月単位の生き方は、暮らしの随所に根付いている。
その代表格が、会計処理だ。
決算と言えば年に一度行うモノと言うのが世間の常識と思われがちだが、これはあくまで税金を払うための風習であり、その妥当性に根拠はない。
現に、株主に対する開示を求められる上場企業は、4半期決算を義務付けられるし、納税不要なタックスヘイブンでは、決算そのものが必要ない。
経営状況の把握のためなら年に一度では少なすぎるし、ユニクロやソフトバンクでは日時決算が行われている。
僕の場合は複数の法人や個人の会計をサポートしているので、年に一度に集約するとその作業に追われて他に手が回らなくなる。
多くの事業を同時に進行するためには、せめて月次で決算することで作業を平準化する必要が有り、僕の関わる全ての事業は月次処理を原則としている。

こうして、全ての金銭処理を月次で集約すると、それを生み出す行為や取引もすべてを月次で総括したくなる。
また、実績を踏まえて作る計画にも、月次の作業が発生する。
自分自身の金銭処理は、自分の行動内容に連動し、「予算と決算」と「予定と結果(日記)」の作製に月末月初を宛てるようになる。
かつて糖尿病が発症し、食事と運動でその脱却を果たした時も、運動と食事の予定と実施記録を月ごとに集計し、日々の行動予定と連動させてきた。
今年の2月からは、生まれて初めて自炊生活をスタートし、栄養素バランスと熱量管理と同時に食材コストを管理して、毎月栄養素別食材費の決算をしている。
糖尿病食事療法の基本熱量1,600kval/日を前提に、1日2食を実践中だが、食材費は平均550円/日で推移している。

さて、だらだらと述べてしまったが、そろそろ本題に移りたい。
8月末は台風10号が来襲し、3日間ほど自宅軟禁に近い足止め状態が続いたおかげで、9月1日を新鮮な気持ちで迎えることができたのだが、僕にとって大事なのはむしろ「月替わり」の方で、台風一過は添え物に過ぎない。
自ら繰り返す月次のルーティンが、記録的な台風鳥も大切だと感じたことが、今日の僕の喜びだ。

このブログを発信する「株式会社なのに」は、家族を法人化することで生活を取り巻く多様な側面の合理的処理を模索してきたのだが、僕個人もその延長上で生きているに過ぎない。
家族や私生活を、法人さながらに仕組化することは、多くの人の目に変人と映るだろう。
だが、人生の内で、光り輝いたり記憶に残る部分はごくわずか。
その時のために、残りの人生を犠牲にするなど、僕には絶対に耐えられない。
そこで僕は、人生から自分が無駄と思う時間を極力排除して、つまりせっかちに生きている
お金の計算は、目先の利益でなく実績に基づく計画のため、日記の作製も、後で読み返すためでなく予定を立てるための資料として、喜びのためにジタバタする日常を考え実行していきたい。
日常とは、人生の一部でなく、全部のことだと今日思った。