2024年1月1日に発生した能登半島地震は、間もなく発災から8か月が経過する。
この地震は最大震度7を記録した上に、能登半島北部直下の活断層が上下方向に動いた逆断層型の地震であったため、地殻の変動や津波を伴う大地震と位置付けられた。
だが一方で、水道や道路などインフラ復旧に続く仮設住宅の建設どころか被災地の片付けの遅れが繰り返し報道されるばかり。
13年前の東日本大震災において既に経験済みのこの問題は、教訓として生かされるべきなのに、「予算がない」「人手がない」「何をすればいいかわからない」と、検討の段階でウヤムヤになってしまったという。
「地震から半年で避難所暮らし2086人」という石川県の現状は、地震大国としてやるべきことをやらなかった結果であり、「しょうがない」で済まされるような話ではないという論調だ。
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そんな中、ひょんなきっかけで8月23日から5日間、奥能登の各地で復興に取り組む人たちを訪ねる旅をした。主な訪問地は、輪島市の河井町・深見町、珠洲市の大谷町・狼煙町・三崎町・蛸島町・飯田町・宝立町、そして、能登町の鵜川・宇出津・恋路。
主目的は進行中のプロジェクトのため、ここではその内容に触れないが、メディアから聞こえてくる「歯がゆい情報」に憤りを感じる僕としては、現地の実情を自分で体感し、当事者の皆さんと会えることは得難い機会になるに違いない。
そこで今回は、奥能登の各地で見たこと聞いたこと、そして感じたこと考えたことについて、メモを整理しながら考えてみたい。
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まず、自然現象としての地震について、その概要を感じたままに書き留めたい。
能登半島は、高岡市あたりから北方向に延びる南部分と、本州に沿って右斜め上向きに延びる北部分で構成され、北部分を奥能登と呼んでいる。
今回の地震は奥能登直下の活断層が上下に動き、奥能登部分の北側が隆起し、南側が陥没した。
津波は東側から西に向かって能登半島を右から左へと襲い掛かる
珠洲市の東側沿岸と、珠洲市中心部以南の東向き海岸線が津波の直撃。
被害は、地震振動による倒壊と、それに伴う火災による消失。
地震がもたらす土砂崩れや津波による倒壊や埋没被害。
そして、地震をもたらした地殻変動による隆起や陥没、液状化などによる倒壊や地盤沈下。
これらすべてを見聞きすることで、災害の多様性とともに被害の多様性を、網羅的に体感できた。
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次に、今回の発災日1月1日は、正月それも元日ということで、仕事、生活、旅行、儀式など様々な場面での被災が人々の運命を振り分けた。
また、真冬の時期ということもあり、積雪も相まって、道路やインフラの寸断によって、多くの集落が孤立状態に陥った。
そのため地域は、歩行移動で避難できるエリアと、ヘリコプターによる救助を待つエリアに振り分けられる。全町(村)避難という苦渋の決断が、その後のコミュニティ維持に役立ったという嬉しい悲鳴も聞くことができた。
自宅を失った人々の避難行動は、1次避難→2次避難→仮設住宅→復興公営住宅へと続いていく。
その間、就労世帯や子育て世帯は、住居より仕事や教育の確保が優先し、地域コミュニティから離脱する。
また、自宅や事業の再建を目指し、被害認定や公費解体の手続きが待ち受ける。
それらの尺度を決める「全壊と半壊」の判別と、全壊を免れた場合の是非など、被災者認定は新たな格差を生じてしまう。
これまで1993 年 2 月 7 日の「能登半島沖地震」や、2007 年 3 月 25 日の「平成 19 年能登半島地震」 などですでに被災の履歴がある人は、それを踏まえた今回の扱いを巡って紛糾している。
被災と非難を一度でなく、繰り返すことにより、その問題を蓄積してしまう。
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また、奥能登は2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)と言うけれど、実際には200以上の集落で成り立ってる・・・と語るのは、輪島市河合町で漆器販売を担うYOさん。
町内で従事する多くの漆器職人の支援や朝市の復活に向けて、自分たちが輪島を背負っているという自覚を持って奔走中とのこと。
だが、海沿いの東側3つ目の集落である深見町で、地区協議会を運営するKSさんは、東京から移住してきたよそ者だ。
制度上輪島市に所属はするものの、深見町の全町避難を強く促し、地域コミュニティをまとめているのは、輪島市のためというわけではない。
珠洲市で、プロジェクトを立ち上げる予定の4か所では、いずこも珠洲市役所との連携に苦慮している。
すでに地方行政は、地域社会の担い手でなく、日本政府の出先機関的役割にシフト済み。
地域ごとのニーズよりも地域間のバランスや平等を優先する行政に、もはや多様な地方自治は担えない。
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各地の人々にお目にかかり、その体験や思いを聞くうちに、たどり着いたのはその多様性というか、同じ人など一人もいないということだ。
それは、地域についても同じことで、空間的な地形や景観はもちろんのこと、時間的な歴史やビジョンも様々だ。
相談に乗るという僕の作業は、相手に寄り添い、相手の立場に身を置いて、その人自身とその周囲との関係を体で感じ取ることだった。
「能登の復興はなぜ遅れているのか」という初めの思いを忘れまいと心掛けながら、これを繰り返していくうちに、思いの変化をはっきりと感じ始めた。
復興は、必要ならば急ぐけど、急がなければならないものじゃない。
復興とは、「新たな日常を構築していく作業」であり、それはまさしく「起業」を意味している。
慌てずに、むしろゆっくり、じっくり一歩ずつ、自分の足で前進しよう。