安倍さんの死に思う

7月8日はわざわざ奈良からOさんがお越しになり、名栗の森の道づくりを指導してくださるというので、11時過ぎにカミさんと一緒に車に乗って家を出た。
プリウスのテレビをつけて画面も見えるようにした途端、とんでもないニュースが飛び込んできた。
大詰めの参院選の応援に駆け付けた安倍元首相が、演説を始めて間もなく背後から狙撃されたという。
ニュースでは、その一報とともに、目撃者の証言や撮影動画などの情報が次々と映し出された。
犯人もすぐに取り押さえられ、安倍さんもすぐに病院に搬送されたが、夕方には死亡が伝えられた。
19時ころに帰宅した僕たちは、この一部始終を見続けることとなった。
もちろんあなたも、そんな日を過ごしたかもしれない。

安倍さんが狙撃された直後、その容態は心肺停止と報じられたので、僕の脳内では「安倍さんの殺害をどう解釈するか」という回路が即座に起動した。
安倍さんが殺されると、社会は、世界は、僕たちはどうなるのか。
安倍さんが死ぬことで、一体何が起き、何が起こらないのか。
そして、安倍さんが死ぬことは、社会にとって、僕にとって、果たして良いことなのか、良くないことなのか。まだ死亡が確認されていないのに、死んだ場合のことばかりが頭をよぎる上に、もしも亡くなった場合に喜ぶべきか悲しむべきかを考える自分がいることに、僕は驚いた。
運転する車中なのでよそ見も何もできず、体は運転に、でも頭はこのことばかり考えた。
今日は、その続きをもう少し書きたい。

まず初めに思ったことは、安倍さんが元首相であり、要職を務める現役ではないことだ。
不幸中の幸いなのか、あるいは犯人には別の狙いがあったのかわからないが、少しホッとする自分を感じた。
次に思ったのが、この事件は単独犯の犯行かどうか、つまりこれで終結するのか、これからさらに続くのか。
これについては、今後の動向はもちろんのこと、犯人の取り調べや捜査の進展を見なければわからない、懸案事項として覚えておこう。
そしてもう一つ、狙撃時の「ドカーン」という銃声(むしろ砲音)と、使用された武器が気になる。
そもそも、こうした狙撃の瞬間を様々な動画で見ること自体がこれまでにない経験だが、目撃者の「バズーカのような」という表現に僕はビビった。
サリンをばらまいたオウム真理教のような、武器を製造する怪しい組織の存在と、安倍さんを取り巻く右傾組織や軍需関連など、戦争のにおいを僕は感じた。

そうこうするうちに、各方面のコメントが報じられ始めた。
参院選の終盤ということもあり、各党の代表や自民党の幹部たちはほぼ全員が遊説中で、この事件は他人事ではない。
ある意味で、全ての人が共有しているかのように「これは民主主義に対する蛮行だ」と、多くの人が口をそろえた。
だが僕は、これに対して強い違和感を禁じ得ない、なぜなら自殺者まで生んでいる公文書の改ざん問題など、民主主義への蛮行はすでに繰り返されている。
それを止められずにいる議員たちが、その張本人として糾弾される安倍さんの死に対し、こんな言葉を使っていいのだろうか。
さらに言えば、狙撃犯の取り調べについて初めに報じられたのは「これは安倍さんの政治信条に対する恨みではない」というコメントだ。
警察やマスコミの意図は、混乱を避けるためだとは思われるが、政治家たちが選挙への関心を煽っているとしか僕には思えない。

国内のイメージ操作ばかりに気を取られる僕が、ふと我に返ったのは、海外からのコメントだ。
欧米各国などいわゆる同盟国はもちろんだが、台湾からは支援を受けた感謝の言葉、中国からは関係改善に尽力したねぎらい、そしてロシアのプーチン大統領からまでもお見舞いや弔意が示された。
もちろんこれは、外交のエチケット社交辞令かも知れないが、全ての政治家に対する者ではない。
そして、すべてのメッセージは、現職の総理大臣であるかどうかに関係ない。
最初に僕が気にした「現職かどうか」などの懸念は、全てが国内事情の話であり、世界がまず示してくれたのは、「安倍さんの実績」に対する評価と称賛だった。
もちろんその陰には「批判や侮蔑」もあるだろうし、それらは表に出ないかもしれない。
でも、「死」とはひとまずの「終わり」だが、それはすなわち評価と検証の「始まり」なのだと気づかされた。

夕方になって、奈良の病院に昭恵夫人が到着すると、間もなく安倍さんの死亡が発表された。
心肺停止と死亡の違いは、死の始まりと死後の始まりなのかもしれない。
亡くなった安倍さんは、すでに責めるべき存在でなく、評価検証することで、今後に生かすべき過去になったのだと、僕は気づいた。
安倍さんを利用し、安部さんに便乗することで、民主社会を汚す奴らにきちんと矛先を挿げ替えよう。
そして献花を手向ける方たちや、安倍さんの思い出を語る人々の話は、心安らかに聞きたいと思う