人間用の道作り

今僕は、で道づくりにハマっている。
名栗の森とは、埼玉県飯能市にある名栗湖に面する山林のこと。
山林を活用できずに困っていた所有者Oさんと、を分かち合う「オーナーシップクラブ」を作り、仲間づくりを初めて5年が過ぎた。
自伐型林業と呼ばれる小規模林業に挑むSさんが入会してきたのは3年前。
ついにこの春、極力立ち木をよけながら、軽トラックがギリギリ通れる道を、ミニユンボ(小型重機)で切り開いた。
それは立派でも便利でもない、粗末で不便な道だが、小さな子供でも高齢者でも、ゆっくり歩けば誰もが山の上までたどり着くことができる。
つまり、大きな機械や車両でなく、人間のための道と言える。

これまで山林の利活用と言えば、樹木や動植物を守ることばかり考えて、道作りに代表される開発行為は、自然破壊と決めつけていた。
でも、今回の道づくりを「開発行為」と思えないのはなぜだろう。
それは、極力自然を壊さないように、配慮を欠かさずに行うからだ。
できるだけ、地面を掘ったり木を切らないで済む経路を選び、切った木は土留めに使いながら掘った土で埋めていく。
こうして、極力何も持ち込まず、何も持ち出さないように配慮するのは、自然を大切にするというよりは、余計な手間を省くため。
つまり、極力開発せずに済ませたいと願うから、これを開発行為とは思えない。

だが一方で、道はひとまず出来上がっても、完成には程遠い作りかけの状態だ。
雨が降ればぬかるんで崩れてしまうかもしれないし、やがて草木が生い茂り道は見えなくなってしまうかもしれない。
わずかな放置や油断が許されない、終わりが無い道づくりだからこそ、自然に抗う開発だ。
そもそも放置林問題とは何なのか・・・むしろ自然の森は、放置することが大切なはずだ。
問題になる放置林とは、大きく分けて「施業放棄された人工林」と「里山放置林」の二種類で、いずれも人間の関わりが継続しない放置のこと。
先日「継続しなくちゃ社会じゃない」と書いたばかりだが、またしても継続しないことが問題を引き起こしていることに、僕はうんざりする。

林業と言えば、スギ・ヒノキなど針葉樹の植林による造林と伐採を思い描くが、真っ直ぐで形のよい木材を生産するためには貝割れ大根やもやしのように、高密度で植えるのが効果的だ。
だが、成長に合わせて間伐(間引き)して密度を調整しないと、一本一本は貧弱な木になり、また、下層植生も貧弱となるため、山全体が災害に対して脆弱で、生物性も低くなる。
さらに、搬出材の販売では伐採費用しか捻出出来ず、伐採跡地への再造林をせずに放置する地域もある。
また、薪炭林や農用林として人が利用し維持されてきた里山も、原生林とは植生も樹形も異なり、人が利用することで萌芽更新を繰り返し、株立ちの若木という形が保たれていた。
しかし、利活用が廃れた里山放置林では株立ちのまま大木となり、老齢木につく虫や菌の異常繁殖によって集団枯損すると天然更新が追いつかず、山の生態系バランスが崩壊する。

かつて、林業による造林や里山としての利活用が継続したのは、自然循環と開発速度が絶妙にバランスしていたおかげだろう。
産業革命を経て効率化、大型化、大量化が進むにつれ、人間の開発(破壊)スピードと自然の再生(回復)スピードに、取り返しのつかない乖離が生じた。
我が国における農林道の整備は劇的に進行し、農林業の機械化が実現した。
便利な舗装路、トンネル、橋梁などが高速かつ大量輸送を実現し、曲がりくねった遠回りの既存の山道は旧道として朽ち果てていく。
これを体内の血管に例えれば、車両や大型重機が行き交う舗装道路のような太い血管に依存するうちに、毛細血管のように張り巡らされた人の道が失われている末期的な状況だ。

農地や山間部の問題だったはずの「獣害」が、今や住宅地や都会にまで押し寄せてきているのは、道を失った人間が家や車の中に閉じこもっているからだと僕は思う。
日本国土の7割近くが山林の日本において、山中の道を捨てることは、国土を獣に明け渡すに等しい。
さらに言えば、モビリティの自動化や効率化が進むことで、国土の機械やAIへの明け渡しも進んでいる。
これでは、僕ら自身が社会を担う「民主化」を目指すどころか、人間の排除を受け入れ、助長するだけだ。
だから今、僕は「人間用の道づくり」に取り組みたいと思い立つ。
それは「人間が歩くための道」であり、「自分自身で作る道」のことを指す。