行動してから考える

僕は4月から、毎週日曜日を横浜反町で展開する「いづみプロジェクト」への出勤日と決めた。
自宅からバイクで現地に赴き、9時から2階のオフィススペースで来客相談対応と事務処理。
11時半ころから1階に降りて店内清掃と開店準備をして、12時から17時半ころまでtea&barをオープンし、18時ころに撤収する。
これまでの4日間を経て、こんなルーティンが確立しつつある。
昨日は便所掃除の手順を教わり、エプロンを付けて通行人への声掛けに立ったけど、小雨まじりの悪天候で新規の来客はほとんど来ない。
おかげで、口コミで集まった友人同士のペチャクチャタイムを堪能できたが、誰もが「松村さん、なんでこんな事してるんですか?」と問いかけてくる。
振り返れば、僕が受ける相談の大部分は「どうしたらいいだろう」、つまり行動に関する相談だ。
そこで今日は、「やること=行動」について考えてみたい。

何かをやるとは、現実の世界に変化を起こすこと。
ここで言う変化には、自分の変化と自分以外の変化の両方が含まれるが、いずれにせよ行動の前と後の違いのことを言う。
この違いに気付いたり確かめることを「感じる」と言い、感じたことを分析して次の行動を決めることを「考える」と呼ぶ。
このように、僕が行動を中心に感じ・考えるのに対し、あなたは異論を唱えるかもしれない。
行動でなく、感じることこそが中心だとか、考えることが中心だと。
でもそれは、行動する⇒感じる⇒考える⇒行動する⇒感じる⇒考える⇒・・・の循環をどこから考えるかの違いにすぎない。
とにかく今日は、「行動」を中心に話を進めよう。

感じることや考えることと異なり、現実世界での行動では周囲や他人を無視できない。
バーチャル空間、仮想現実の魅力とは、まさにこうした現実の制約からの解放だ。
解放をもたらす具体的な違いは何かと言えば、現実は後戻りできないが、仮想はリセットできる点だと僕は思う。
負けたりしないのでなく、それを無かったことにして、何度でもやり直せるのがリセットだ。
どんなに悔しくても、失敗や負けの無いゲームなど何の魅力も無い。
失敗や負けを乗り越えることこそがゲームの醍醐味であり、勝者として生き残ることこそがゲームのゴールだ。
その結果、人々は仮想世界に現実味を求めるどころか、現実を超えるスリルや迫力を求めている。
今やメタバースと呼ばれる仮想世界では、仮想の財産にブロックチェーン技術が用いられ、法定通貨でアイテムやアバターといった資産を取引するRMT(Real Money Trading)が急成長を始めている。
コツコツ修行と戦いを繰り返し、仮想通貨を稼いでいるうちはいいが、やがて仮想の借金を繰り返し破綻を迎えれば、それは取り返しのつかない現実の破綻とリンクするだろう。

「やる」とは「自分でやる」ことで、他人にやらせることじゃない。
だが、他人にやってもらわないと自分の力では何ともならないこともある。
その場合は、誰かにやってもらえるよう「頼む」ことが、「自分でやる」ことに相当する。
だがもしも、相手が「タダではやらない」と言ったらどうだろう。
その場合を僕は「失敗」と呼び、頼み方を修正するか、その相手を諦め別の人に頼んでみる。
「タダではやらない」という言葉が求める代償は、自分以外の何かを意味するからだ。
それがたとえ払える範囲のお金でも、僕の頼みでなくお金のためにやってくれるなら、僕はそんな人に頼らない。
つまり、「やる」とは何かを与えることでなく、自分の体を動かして行動することだから。
もちろん自分の体とは現実の肉体のことを指す。
言うという行動は、声を出し何かの言葉を発する行為のことで、その言葉の内容のことではない。

言行不一致とは、言った通りの内容をやらないか、やってもいないことをやったかのように説明すること。
言と行を一致させるには、言った通りにやるか、やった通りに言えばいいのだが、あなたならどちらを選ぶだろう。
僕がこれまで後者を選んできたのは、その方がずっと楽ちんで楽しいからだ。
とにかくやってから、そのプロセスや結果を説明する。
相談されたら聞いてみる、誘われたら行ってみる、紹介されたら会ってみる。
そして、うまくいくか、儲かるか、褒められるかは考えず、頼まれたらやってみる。
うまくいくか、儲かるか、褒められるかは、やるかどうかの判断基準でなく、結果の評価に過ぎない。
失敗ならば続けられないので、継続できるように修正し続けるだけのこと。
その評価は自分でなく、周囲の人たちに任せたいと僕は思う。