仲間と結婚

僕は、様々なことに興味を持ち、口を出し、首を突っ込み、参加している。
それらを一言で言うなら、「なコミュニティを作ること」にまとめられそうだ。
我々にとって一番大切な継続とは、終わらないことであり、すなわち死なないこと。
必ず死ぬ人間が、これまで生きてこられたのは、単に繁殖を繰り返しただけでなく、何かをする仲間が集まって暮らしてきたからに違いない。
恐らく、そのもっとも基本的な組織が繁殖の単位でもある家族だろう。
そして、隣接する家族同士が共同する地縁コミュニティが、やがて地域社会を形成した。
だがすでに、この構造の基礎となる家族は崩壊し、地縁コミュニティは消滅しつつある。
そこで僕は、家族というコミュニティを血縁の縛りから解放し、親しい他人(仲間)を交えることで、「コミュニティの多様化」に取り組んでいる。

僕はこれまで、この話に対する反論をほとんど聞いたことが無いのだが、多くの場合「性善説に基づいている」と言われてしまい、話はそこで終わってしまう。
簡単に言えば、仲間の中にひとりでも悪人や裏切り者が居たら成り立たない話という意味だろう。
確かにその通りかもしれない、いやむしろ、その通りだと僕も思う。
だが、だからと言って「やめておこう」となる訳でなく、多くの場合「やってみよう」ということになる。
僕も気を取り直し、「では次に、仲間と何を分かち合いたいのか、考えてみよう」と次の話に進んでいく。
でも本当は、さっきの言葉は突き刺さったままで、胸はいつまでも疼(うず)いている。
本当に「性善説」などの前提が必要なんだろうか。

性と言う字は、「生まれ持った心」を表すという。
性善説は、「人は本質的に善なので、放置しても悪にならない」という楽観論と受け取られがちだが、「人は善に生まれても放置すると悪になってしまうので、それを防ぐ教えが必要だ」と、孟子や朱子は説いているらしい。
これはまさしく正反対の意味を成す解釈と言えるので、こうした議論を、僕は絶対に放置できない。
だが、僕の疼きはこの問題ではない気がする。
むしろ、本当に「善」が必要なのか、悪を受け入れてはいけないのだろうかという疑問だ。
確かに、積極的に悪人を受け入れる家族などあるとは思えないが、全ての悪人は家族に属しているのだから、悪人を含む家族は存在する。
つまり、家族には「受け入れ」という仕組みが無いのではないだろうか。

考えてみれば、家族が他人を受け入れるのは結婚による配偶者だけで、残りはすべて母親から生まれる子供だけ。
同性婚はもちろんのこと、夫婦の別姓までがこれほど重要視されるのは、結婚こそが家族というコミュニティへの唯一の参加方法だからなのだ。
だとすると、結婚相手を選ぶとき、果たして私たちは「善い人」を選ぶのだろうか。
少なくとも僕は、今のカミさんの「善悪」など、考えたことなどない。
好きだから、そして一生仲良くしたい「仲間」だと思ったから結婚したし、今でもそれは変わらない。
いや、正直に言えば、時々いやしばしば嫌いになるし、腹も立つし、憎い時もあるが、できるだけ早めに仲直りして、仲良くしたいと願っている。

一方で、配偶者以外の家族はすべてが血縁者なので、善悪どころか、好き嫌いも選ぶことができない。
大切な家族は生まれ、死んでいくが、自分で決めることができるのは結婚記念日だけで、誕生日も命日も選ぶことはできない。
こんな強制的に与えられ、逃げられない関係が果たして仲間と言えるのだろうか。
むしろ、そのしがらみから抜け出して、解放されたいと願う方がずっと自然なことだろう。
さらに言えば、子どもたちに思いを託したり、何かを承継することは親の願いに過ぎず、これに従わない子を「悪」とは思えない。
僕の言う「仲間」とは「親子」でなく、自発的な好きや賛同に基づく緩やかな「夫婦」なのかもしれない。

ここまで書き進めたところで、僕は「ふうう」と息を吐いた。
誰もが使う「性善説」という言葉の武器が、僕には通用しないことが分かったからだ。
その上今日は、仲間が「緩やかな夫婦」であり、コミュニティへの受け入れが「緩やかな結婚」であることにまで気づいてしまった。
そして、このことを誰と話すのか、今から楽しみだ。