コロナと地方自治

先月はオミクロン株による感染急拡大の中で、みんなの家シンポジウムの開催にこぎつけて、やっと一息ついたのも束の間。
妹からPCR検査で陽性になったとの連絡を受けたのは、1月28日(金)のことだった。
世田谷の家で同居する88才の母から妹を隔離するために、僕は翌土曜日から妹の家に住み込んで母のサポートを開始した。
足が弱ったとはいえ母は元気なので、僕のやることは食事の支度くらいしかないのだが、発症した妹の濃厚接触者となる以上、母も自宅待機を余儀なくされる。
そして、そこに飛び込んだ僕自身も濃厚接触者になるのかも知れないということで、僕や弟のカミさんたちが大量に食材を買い込んでくれて、僕と母そして妹の隔離生活が、暗中模索でスタートした。
土日は世田谷保健所やかかりつけの医師が休業で、全ての手続きはもちろんのこと、問合せすら月曜から始めるしかない。

妹の症状は、ワクチン接種時の副反応を最大化したような全身の痛みが主体で、発熱はほとんど見られない。
そこで僕は、とにかく体力と気力を維持させようと、フルーティーなヨーグルトやジュースなど口当たりの良いものを多用しながら、せっせと食事を運び込んだ。
その効果もあってか、妹は特段の薬も処方せず、見る見る回復して元気を取り戻していった。
だが、母への感染を危惧する兄妹や知人たちからは、「在宅療養などもってのほか」と、入院や施設療養などの更なる隔離を求める声が高まるばかり。
深刻な痛みから自力で回復しつつある妹にとって、無症状患者の隔離を目的とする療養施設と、治療を目的とする医療機関のどちらかを選べと言うのは酷な話だ。

日曜には、注文してあった抗原検査キットが届き、家族全員が検査して妹の陽性とそれ以外の陰性を確認した。
月曜には、ようやく東京都の相談窓口に連絡がつき、療養施設への受け入れが決まり、翌日東京都の専用車が来て搬送された。
その後もいろいろあったけど、結局僕は濃厚接触者に該当せず、母たち濃厚接触者は4日(金)には自宅待機から解放され、妹も療養期間満了ということで、6日(日)に療養施設から陰性の判定を受けることなく釈放された。
以上が雑駁ながら、今回僕が経験した新型コロナウィルス感染騒ぎの顛末だ。
振り返ってみれば、たかだか軽症者1名の、極めて軽微な感染だったのに、多くの人を巻き込んで10日間の騒動になった。
その間、僕が体感し垣間見た「コロナ禍の実態」を、今日は皆さんに伝えたい。

まずはじめに、この感染症を「治すこと」には、「本人が元気になること」と「他人に移さなくなること」の二つがあることだ。
これまでのところ、感染当事者の妹は、ほぼ治療することなく自力で回復したと言って良い。
本来なら、こうした自然治癒こそが最も喜ぶべき結論のはずなのに、感染症ではあまり意味を持たない。
他人に移す可能性のある人は、たとえ感染が顕在化(陽性)していなくても「感染源=加害者」として位置づけられる。
つまり、感染者のごく一部であろうと重症化や死に至るなら、感染源は障害や殺人を犯す可能性を持つとみなされる。
従って、たとえ症状が改善して元気になっても感染リスクが無くならない限り「治ったこと」にはならない。
妹が陰性を確かめずに療養を終えることは、どうして許されるのだろう。
世田谷保健所サイト・療養の終了についてを参照
https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/fukushi/003/005/006/d00190526.html

そしてもう一つ、この感染症への対処は、個人でなく社会が決めるということだ。
いま述べた通り、施設療養の期間は、発熱を伴わない72時間を経ることで終了する。
この規定はオミクロン株発現以前に定められたものであり、僕の妹はそもそも発熱の無い陽性だった。
つまり、個別症状の考慮はもちろんのこと、科学的根拠すら存在しない「社会的ルール」に過ぎない。
先般シンポジウムを開催する際に、東京から仙台会場に移動するパネリストたちに課したコロナ対策も、曖昧なものだった。
オミクロン株のまん延によりワクチン接種の効果は疑問視され「ワクチン・検査パッケージ」はすでに形がい化していた。
3日以内のPCR検査を義務付けたものの、そもそもこの3日という有効期間は先述のパッケージが根拠となっている。

社会全体として「まん延防止」に挑む以上、社会全体が足並みをそろえる必要があり、一律のルールが適用されるのは致し方の無いことだ。
だがそれが、「平均値=最適値」という幻想にすぎないとしたら、我々は一体どうすればいいのだろう。
その答えは明白だ。
これは、社会全体が足並みをそろえて対処すべき課題ではない・・・と考えるべきだと思う。
現に、政府が自治体に判断を委ねているのはそのためだ。
ところが自治体は、自ら判断するのでなく、国のリーダーシップ(緊急事態宣言)を求めるばかりだ。
こんなの地方自治じゃない。
自治体は、さらに地域に判断を委ねるべきではないか。
そして地域社会は、家族やコミュニティに判断を委ねるべきではないか。

僕はこの10日間、家族のメンバーとして周囲と違う判断をするうちに、こんな考えに辿り着いた。
これもまた、小さな国づくりなのかもしれない。