多様な世界の作り方

2001年の9月11日、僕は名古屋にいた。

お世話になった某社のオーナーから突然副会長に指名され、2代目社長と一緒に名古屋本社の体制づくりに取り組んでいた。

仕事が終わり、夕食を外で済ませ、自宅に戻ってテレビをつけた時のこと、マンハッタンの貿易センタービルに2機目の飛行機が激突し、やがて2つのビルは瓦解した。

その日はもちろんのこと、その後いくら時間が経っても、あの出来事を理解することはできなかった。

たとえビンラディンが殺され、イラクのフセイン大統領が殺されても、何の結論にも感じられなかった。

20年の月日が経った先月、アフガニスタンからの米軍撤退が行われても、腑に落ちない。

でも、今日を迎え、20年前の出来事を思い出すことで、改めて僕は「これが一つの結論なのだ」と実感した。

そもそもこの事件は、20年に及ぶ「報復の連鎖」だった。

いや、正確に言えばそれ以前からの連鎖がもたらした事件かも知れない。

だが、20年が経過して明らかになったのは、いくら殺しても、いくら壊しても、報復の達成感は得られないどころか、さらなる連鎖と後悔ばかりを産むことだった。

この連鎖を断ち切るという意味で、米軍の撤退に賛同するが、ここで更なる悲劇が生まれることに非難の声があるのも事実だ。

でも、振り返ってみれば、世界は常にこうした賛否を抱え、その解決よりも目先の対処に追われてきた。

イエスキリストが「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」と言ったとすれば、2000年以上前から変わっていない。

なぜ報復をやめられないのか、それは「報復に賛同する人」がいるからだ。

先ほど「世界は常に賛否を抱え」と書いたが、だったら「報復」にだって賛否があるはずだ。

たとえ賛同者がいても、反対者がそれを阻止すればいい・・・というのが正論かもしれない。

だが現実世界では、それができずにいるし、それをさせない仕組みとしての国家がある。

今回の米軍撤退は、アメリカとタリバンの和解によるものだ。

9.11同時多発テロから始まった「テロとの戦い」は、これまでの「国家vs国家」でなく、「国家vs民間組織」との戦いだ。

タリバンの罪は、あくまでアルカイダと呼ばれる民間テロ組織を匿ったことに限定され、アメリカはそれ以外を処罰できない。

もちろん、宗教的拘束や女性蔑視など、アメリカの自由主義と相容れぬ側面はあるものの、それはの理由にならない。

国際社会は、総論として米軍撤退には賛同するが、その結果もたらされる諸問題を各論として非難している。

20年目の9.11に僕が気付いたのは、辞めるべきはこの「総論と各論の使い分け」だということだ。

つまり、「総論賛成・各論反対」を許容せず、「総論賛成・各論賛成」の社会を目指したい。

皮肉にも、この気づきのきっかけは、まさに賛否両論を巻き起こした「東京2020オリパラ」だ。

禍における開催の是非を筆頭に、費用負担の是非、女性蔑視の是非など様々な争点が、「性の実現」というコンセンサスの結実を目指している。

だが、この「多様性」という言葉は、分かったようで分かりにくい言葉のまま、放置されているように僕は感じていた。

でも今日は、この言葉が総論と各論をつなぐ言葉だと、9.11が教えてくれた。

多様性とは、世界の各論が多様なことを示している。

つまり、世界は地球や命を大切にする総論をしつつ、同時に様々な各論を尊重し合うべきという意味だ。

パラリンピックにおいて、同じ競技でも障害の種類や程度によってクラスを分けて競い合うように、世界には様々な国や地域が存在しても構わない。

大勢で競える部門と、小人数が競う部門があるように、国家の面積、人口、経済規模の違いも多様性に過ぎない。

その国や地域のやり方に賛同できなければ、他の地域に移ったり、自分で地域を作ればいい。

その実現や手助けをして、全ての人が賛同できるよう多様な各論を実現すれば、世界は総論賛成・各論賛成が実現できるはず。

これは、僕だけの気づきのはずは無く、同じ考えの方への賛同の表明だ。

だがもしも、この話で何かに気付いてくださるなら、あなたの気づきを明確化して発信するお手伝いをさせて欲しい。