共有と集成

僕が取り組んでいる「土地の共有」とは、「土地そのもの」でなく、土地を介して「別の何か」を共有することだ。

そもそも地球上の土地は、すでに全ての命が共有している。

もし土地所有が「排他的な占有」を意味するなら、生命のいない月にでも行かなければ不可能だ。

先ほど述べた「別の何か」とは、土地に託した「夢」のこと。

土地は、夢を叶えるために世代を越えて走る、リレーで引き継ぐ「バトン」に過ぎない。

僕が提唱する「みんなで地主」は、土地を持たない人と土地所有者が夢を共有する仲間になることだ。

そして、その仲間たちが土地を使って夢を叶えることを、国づくりと定義したい。

さて、ここからが今日の本題だ。

土地を持たない人でなく、土地を持つ人同士が仲間になるとどうなるかを考えたい。

「土地Aを持つXさん」と、「土地Bを持つYさん」が仲間になると、「土地AとB」はそれぞれ「XとYの二人が共有」するようになるが、同時に、「XとYの二人」は共同して「AB二つの土地」を所有することになる。

所有者XYはどちらも所有する土地が増え、土地ABはどちらも二人の共有となる。

一つの土地を複数の人が所有することと、一人の人が複数の土地を所有することが、仲間になることで同時に実現する。

前者は「共有」と呼べばいいが、後者を意味する言葉が見つからないので、「集めてまとめる」意味で「集成」と呼ぶことにする。

法律上の所有権において、これは複数の土地を複数の人が共有で相続した「共有名義」の場合に該当する。

山林など、多くの人が多くの土地を抱えることで、何もできない放置状態を招いている。

所有者の中には既に死亡しているのに相続登記を怠ることで所有者不明状態になったり、所有を自覚していない者も含まれる。

この問題は、一見「共有」の弊害に思われがちだが、「所有者たちが仲間になっていないこと」に起因する問題だと僕は考える。

共有名義のメンバーが「仲間」なら、メンバーの管理をするのは当然のこと。

メンバーが死んだり、新たに加わったことを誰も知らないなどあり得ない。

むしろ「仲間と言えない集団」こそが、地域社会を蝕んでいる。

僕が提唱する仲間とは、「夢や目的」を共有する人達のこと。

人間にとって永続かつ不可欠な土地は、その拠り所にふさわしい。

そして、その仲間が法的にも土地を所有するために、社団法人をお勧めしたい。

社団とは「目的を共有する人の集団」のことであり、その仲間が法的な人格を持つことで、一人の人間として所有権を持つことができる。

土地を所有する人達が、自分が所属する法人に自分の土地を譲渡すれば、先ほどの「共有」と「集積」が明確に実現する。

さらに、土地を所有しない人でも法人に所属することで、集積を共有する仲間になれるわけだ。

この方式を応用すれば、土地や建物の孤立や細分化を解消する新たな選択肢になるかもしれない。

例えば、都会のマンションと田舎の山海を一つの法人が所有すれば、メンバーはどちらも自由に使えるだけでなく、都会の収益を田舎で使えるようになる。

ご近所の仲間が社団法人を作り、自宅を法人が所有すれば、一人暮らしなどやめて集まって暮らすだけでなく、空いた家を賃貸して収益を得ることもできるはず。

マンションの区分所有者が仲間に社団法人を作り、持ち分をまとめて法人が所有すれば、共用部分を自由に使ったり管理も自分たちでできるようになる。

土地や建物を出資する協同組合を作れば、組合員がまちづくりに取り組む住宅生協が成立する。

僕の願いは、「土地の共同所有」を、「夢を共有し土地を集成すること」と言い換えること。

夢や願いを共有する複数の人たちが、複数の土地をまとめて所有することを、「共有と集成」と呼んでもいいか、誰か教えて欲しい。