対馬のような国

渋谷の町は、様々な意味で僕の原点だ。

僕が墨田区で生まれたころ、父の会社はまだ江東区の深川にあったのだが、東京オリンピックに向けて新宿や渋谷の都市化に合わせて、会社を渋谷に移転した。

やがて東京オリンピックが開催された1964年には、父がコンクリート打ち放しの未来住宅を建てたので我が家は亀戸から世田谷に転居した。

当時の世田谷はまだ下水もなく、通学路はすべて未舗装の田舎だったが、近所の空き地に秘密基地を作り、野良犬軍団と戦いながら、ゲリラのような日々を送っていた。

6年生になったある日、父が突然「麻布中学に行け」と言い出したため、ドタバタ勉強してなんとか滑り込み、それから僕の渋谷暮らしが始まった。

その後、本郷の大学にある建築学科に2年と、就職して豊島園の設計事務所に4年通ったあとは、渋谷の父の建設会社で働いて、潰れた後も渋谷で会社を再建し、池尻の世田谷ものづくり学校、そして三軒茶屋の世田谷区役所とすべての仕事場が渋谷の近所だったので、僕は渋谷の町と共に生きてきたと言えるだろう。

西武デパートが渋谷に進出し、スペイン坂に店が立ち始め、恋文横丁が壊されて109が作られたものの、ごちゃごちゃしたすり鉢状の地形は、蟻地獄に似た魔界であり、善と悪を併せ持つ「怪しい不良の町」だった。

ところがここ数年、駅の建て替えを中心にして、渋谷もついに巨大なビル群に変貌しつつある。

渋谷の町が立派になり、奇麗になるにつれて僕の足は遠のいていき、今では何の魅力もない、絶対に行きたいと思わない町になってしまった。

いきなり渋谷の悪口を言い出したのはなぜなのか、それは、先日の対馬旅行が原因だ。

レンタカーを借りて対馬の中をめぐるうちに、対馬に魅せられていく自分に驚いて、何がそんなに嬉しいのかと自問すると、「だから渋谷が嫌なんだ」と心の中から聞こえてきた。

 

ひょんなきっかけで対馬行きを思い立った3/12は、2回目の緊急事態宣言が解除に向かう時期だったので、まさかこれほど感染が再拡大するとは思わなかった。

でも、思い切って行くことで、僕はとんでもないことに気が付いた。

僕が作りたい世界とは、こういうところではないだろうか。

僕が強く感じた「対馬の魅力」とは、要約すると次の3点だ。

・国境の町、堺を介して世界を直接感じ取ることができる。

・歴史の町、長く引き継がれていることがたくさんある。

・自然の町、人間が手を加えていない自然がたくさんある。

そもそも、この3つを明確に言えること自体驚きだ。

僕は今日、この驚きについて少し詳しく話したい。

たぶんこの3つとは、僕が渋谷で見失ったものだ。

僕は渋谷の町に、ささやかかも知れないが世界、歴史、自然を感じ取っていたのだと思う。

世界の人を魅了する渋谷の109やスクランブル交差点は、世界とのつながりを実感させてくれるし、新しいものと古いものが混とんと混ざり合うカオスな町には歴史が息づいているし、すり鉢状の地形や神宮・代々木の森などは景観でなく自然を守る取り組みだ。

対馬がそんな世界であることは事前に調べて分かっていたつもりだったが、実際に行って初めて判った気がするのはなぜなのか。

それは、「考えて分かること」と「感じて分かること」の違いだと僕は思う。

考えるには少し時間が必要だが、感じることに時間は要らない。

つまり、本で調べて考えることで分かることもたくさんあるが、その上で現地に行き「あ、そうか」と感じることで、僕は瞬時に納得した。

一度感じてしまうと、もう自分に対する説明は不要となり、あとはその「感覚」を使って、何をするかを考えるだけだ。

今回対馬に2泊した後、隣の壱岐にも2泊したが、隣り合う2つの島は、よく似た歴史や文化を持っている。

だが、壱岐には大勢の日本人が遊びに来るのに、対馬を訪れる観光客の大部分は船でやって来る韓国人で、日本人はほとんど来ないという。

対馬の土地を買いあさったり、文化財を持ち去る韓国人がいることを危惧する議員連盟あったり、韓国人に媚びる対馬の人々を批判する人たちも居るようだが、恐らくその人たちは対馬に行ったことが無いのだろう。

韓国とうまく付き合えないのは日本政府であり、韓国の人たちが不満を募らせているのは対馬ではない。

対馬を勝手に「日本の一部」と決めつけて、対馬と韓国の交流を邪魔しているとしか僕には思えない。

実際に暮らすどころか来もせずに、遠くからわめいている人の言うことなど、放っておこう。

「対馬のような国を作りたい」、これがこの旅の収穫だ。