個性と競争

個性とは自分らしさというけれど、自分らしくない自分とは何だろう。

もしもありのままの自分が自分らしいのであれば、個性はすでにここにあり、探し求めたり磨いたりする必要などないと思う。

無いものねだりでなく、自分と違う本当の自分を知っていると言うのなら、まさに今、自分らしくない自分がそこにいるわけだ。

だが、今の自分を自分らしくないと思い、本当の自分を探し求めるのなら、その無いものねだりこそが自分なのかもしれない。

いずれにせよ、その答えは自分にしかわからない。

たとえすべての人から「今のあなたは、あなたらしくない」と言われても、その答えを知るのはあなた自身しかいない。

いきなり難解な哲学風の語り口で始めたが、今日は「地域の個性」について話したい。

まちづくりや地域活性化の議論では、「地域社会がその個性を競い合うことで、魅力ある日本を作ろう」という。

個性が競い合うとは、いったい何を意味するのだろう。

競争とは、比較することで優劣を競うこと。

例えば、100mをいかに早く走れるか、20mの助走でどれだけ遠くに飛べるかなど陸上競技が目に浮かぶ。

ビジネスの売上競争やシェア競争、価格競争なども同様だ。

だが、これらは距離や金額などの数値を競っているのであり、アスリートや企業の個性を競っているわけではない。

地域社会が個性を競うのは、こうした競争とは違う。

それでは存続(サバイバル)を競う競争か。

ここでいうサバイバルとは、椅子取りゲームや勝ち抜き戦など、勝者が残るという意味ではない。

商品が市場に承け入れられて永く生き残ること、企業が市場の変化に対応して生き残ること、さらに言えば、生物の種が環境に適応して生き残る「生存競争」のことを指す。

だが、この競争の結果、現在世界の頂点に立つのは人類であり、その特性を個性とは呼ばないだろう。

地域社会においても、繁栄や衰退の歴史というよりは、存続と滅亡に関わる競争であり、個性を競うことを意味してはいない。

そこで、はじめの話を思い出してほしい。

地域社会が競う個性とは、まさに地域の「らしさ」だと、僕は思う。

僕たち自身と地域の「らしさ」には、永続という共通点がある。

地域は地球の一部分なので、誰が占領しようと、人が何人暮らそうと、関係なく存在し続けるのでわかりやすい永続だ。

一方自分自身も、生まれて数年たったころから自分自身の存在に気づき、最後の死ぬときやその後のことは分からない、つまりはじめも終わりもよくわからないという永続だ。

考えてみれば、地球だって遠い昔に誕生し、いつまで存続するか分からないという永続だ。

地域と社会という2つの永続が、どうありたいか、どうなりたいかが、個性を形作るのだと僕は思う。

そもそも勝敗とは、終わり方の比較に過ぎない。

ゴールや締め切りを決めて比べるか、どちらかが滅びるまでやるかの違いはあるが、終わりがあることに違いはない。

したがって、個性の競い合いに勝敗はない。

永続の在り方の違いに、優劣を論じたところで意味はない。

以前、「無形文化遺産はその価値でなく、それを守りたいと願う人がいるかどうかで決まる」と述べたが、まさにこのことだ。

もちろん、個性だけでは生きてはいけず、市場競争に挑み、生存競争にも勝ち残らなければならない、

だが、居場所を持たない一人では、競い続けることは難しい。

地域(土地)と社会(仲間)を持つことが、永続という絶対に負けないやり方だ。

個性の競争こそ、誰も負ける必要のない競争だ。