素晴らしさの落とし穴

新型ウィルス感染拡大が、本格的な第3波を迎えた今、医療崩壊の危機が論じられている。

医療に従事する人たちの疲弊や燃え尽き症候群、コロナ以外の通常医療への影響、医療施設の経営破綻などなど。

だが、疑問に感じるのは、なぜこの程度の感染者数で、日本の医療は崩壊してしまうのだろう。

ヨーロッパ諸国では1日当たり何万人と言われるが、2倍以上の人口を持つ日本の感染者数がいまだ2000人程度と、ケタ違いに少ないではないか。

だが、10万人当たりの死亡者数についていえば、4月2日現在、イタリアが22人、スペインが23人、米国が1・5人、韓国が0・4人であるのに対し、日本は0・05人だったので、なんと10~1000倍の少なさだ。

すでに日本の医療はこんなに頑張っているのだから、これ以上がんばれというのは酷なのだろうか。

確かに、日本の医療水準は世界一だし、あなたもそう感じているだろう。

誰もが国民皆保険制度のもと、比較的安い費用で高水準の医療を受けることが出来るのは、素晴らしい仕組みだと思うし、世界を見渡しても日本のようなシステムで医療費を賄っている国は見当たらない。

WHO(世界保健機関)による世界各国の医療制度の比較においても、健康寿命1位、健康達成度の総合評価1位、乳幼児死亡率1位と極めて高い評価を受けている。

医療技術、医療機材、どれをとっても日本は他国と比べ物にならない程、良質なものを持っているようだ。

だからこそ、新型コロナウィルスによる死者が際立って少ないだけでなく、感染者数さえも少なく抑える要因の一つかもしれない。

だが、この「素晴らしさ」の中にこそ、重大な落とし穴があるのではないかと僕は思う。

医療保険を充実させ、国民の命と健康を医療で守ろうとする国は、決して日本だけではない。

だが、医療の充実と進歩を支えるための費用が増え続けると、必ずこの制度は破綻してしまうので、多くの国で医療費の増加を抑えるための「予防医学」が発達した。

ところが日本では、予防という概念が先進諸国に比較してほとんど発達しておらず「できるだけ医者に行かない」という考え方は変人扱いされてしまう。

疾病に対する保険制度であるため、病気にならないと原則使うことができないのだが、治療費が比較的安いため「病気になったら治療すれば良い」という風潮が広がって、医療費の抑制が困難になる。

また一方で、主要先進国中において日本の医師の医療報酬は極めて低く、その結果いわゆる医師の過剰労働が生まれ質の高い医療を提供することが難しくなる。

医者の収入は高すぎると僕たちは考えがちだが、日本の医師報酬は資本主義国策によって決定され、人件費や材料費が高騰しても、国の財政が悪化すれば下げられてしまう。

歯科に関しては、ここ20年来報酬は減り続けており、日本の診療報酬が主要先進国の中で最低ランクだと、友人から聞いて驚いた。

確かに新型コロナウィルスのおかげで、医療機関の経営者や関連メーカーは、ちゃっかりぼろ儲けしているケースも多いはず。

でも結局、日本の国民皆保険制度が堅持できているのは、現場の医療従事者が世界に類を見ないほどの薄給で働いているおかげと言っても過言ではない。

これは医療だけでなく、福祉、介護に関わる事業も、同じような構造だと思う。

医療費がないから医療費を下げるというのではなく、無駄使いをなくし、分配の仕方を変えるべき。

つまり、医療や福祉を維持したければ、できるだけその世話にならないようにすべきだと僕は思う。

具体的にいえば、現在の国民医療制度における「生活習慣病(高血圧、高脂血症、動脈硬化、糖尿病などの慢性疾患)」を、病気認定つまり保険の対象から外せばいい。

僕はすでにこれを実行に移している。

高血圧は投薬を拒否し、糖尿病は食事制限と運動でインシュリン治療を離脱し、緑内障の眼圧下降点眼剤のみを処方している。

素晴らしさの落とし穴とは、その素晴らしさに甘え依存することで、自らを滅ぼしてしまうこと。

僕は、いつまでも素晴らしさを享受する側に居るのでなく、自分自身が提供する側に行きたい。