神様の意見と自分の意見

アメリカの大統領選挙で、またしてもドナルドトランプが暴れている。

トランプの暴挙を見るたびに、僕がいつも思い出すのは「現実はすべて正しい」という言葉だ。

僕はこの言葉が好きなので、この言葉を見たり聞いたりするたびに、一瞬歩みを止めてしまう。

最近この言葉に出会ったのは、ファーストリテイリング(UNIQLO)の柳井さんが書いた「現実を視よ」を図書館で立ち読みした時のこと。

彼はビジネスの現場で様々なを体験する中で、広い世界と比べた日本の現実を視てきた結果、あまりにも日本人の認識と世界の現実が乖離していることを嘆いている。

この言葉をネットで調べると、勝間和代や松下幸之助が同様の指摘をしている。

他にも、最近読んだ「ファクトフルネス」や、福岡伸一の「動的平衡」だって、現実をよく見ることの重要性において共通している。

つまり、たとえ暴挙と思われる所業でも、その「現実」否定せず直視しなければ、理解も評価もできやしない。

では、一体「現実」とは何だろう。

Wikiによれば「現実(げんじつ、英: Reality, Actuality)は、いま目の前に事実として現れているもののこと。あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである。」とある。

ここで興味深いのは、説明の最後の部分だ。

この逆を言うならば、「現実とは嘘が混在しない真実」ととなり、「現実はすべて正しい」と同じことを言っている。

これはまさに、説明と定義の問題で、前者は「Wikiによる説明」対し、後者は「僕の定義」を述べている。

つまり、「正しいとは、現実のこと」だと僕は考える。

話をトランプに戻そう。

トランプを正しいと言う人の気が知れないとか、嫌な奴かどうかが問題ではないとか、トランプ支持派と藩トランプ派の対立は深まるばかりだ。

「正しいと正しくない、善いと善くない」が、次第に「正しいと誤まり、善いと悪い」になり、対立する双方が相手を「誤った悪者」にしているのが今のアメリカだ。

トランプが、接戦州の開票を差し止める訴訟を起こすのを見て、大多数の日本人もけしからんと憤慨するかもしれないが、アメリカという法治国家では、当然の権利として認められる行為だ。

だから僕は、トランプを見ていると、むしろ世界の現実を知ることができて勉強になる。

トランプの背後には、とてつもない知的暗黒があるのかもしれないが、それは民主党にしても同じであり、さらに言えば、日本の自民党も共産党も同じこと。

それこそが世界の現実だと僕は思う。

僕が言いたいのは、「現実は悪い、あるいは間違っている」と言う方がナンセンスだということ。

そうでなく、「現実は嫌い、あるいは反対だ」と言うべきだ。

善悪や正誤にすることは、それが「神の定める絶対」であることを意味している。

だが、今回の選挙は「トランプを神が認めているか」でなく、「トランプをあなたは認めるか」を問うている。

つまり、トランプを支持するなら「トランプが好き、あるいは賛成だ」と言うべきだ。

以前、サンデル教授の白熱教室で、兵役について「徴兵制と志願制のどちらが良いか」という授業があった。

もちろん大多数の学生は志願制を支持し、徴兵制を支持したのは数人だけだった。

そこで、徴兵制支持者に理由を聞くと、「徴兵制は全員当事者なので、反対すればを回避できるが、志願制だと反対者は行かないので、戦争を止められない。」と言う。

そこで教授が「志願制を支持する人の中で、兵役を志願する愛国者は手を挙げて!」と呼びかけると、場内は静まり返り誰も手を挙げない。

恐らく、志願制が正しいのが神様の意見で、志願したくないのが自分の意見なんだろう。

だから僕は言いたい、「神様の意見と自分の意見を使い分けるのはよそう」と。