被害を無くす

発生から9日が経過した知床の遊覧船沈没事件は、今やコロナ禍やウクライナ情勢を凌ぐトップニュースになりつつある。
乗客の捜索が難航する上に、観光船のずさんな管理体制が次々に露見するにつれ、僕たちの憤りは増すばかりだ。
4/23の第1報に触れた時、僕がすぐに想起したのが、1954年相模湖で22人の中学生が亡くなった「内郷丸遭難事件」だった。
1970年、事件を起こした麻布中学校に僕が入学した時には、まだ事件当日の遠足を引率したI教諭が教壇に立っていて、遠足のチラシにでかでかと「船には乗るな!」と書いてあったのを思い出す。
人生に「取り返しのつかないこと」が存在することを学んだのは、まさにこの時だったと僕は強く感じた。
ここでいう「取り返しがつかない」とは、加害者もしくは被害者になることの両方だ。
一度なりたくない者になってしまうと、そうなる前に戻したり、そのことを無かったことにはできない。

事故後の捜索により死亡が確認された14人と、まだ行方の分からない12人はもちろんのこと、その家族や友人など多くの被害者を生んだ。
一方で、観光船を運航した船長はもちろんのこと、経営者や従業員、監督官庁、そしてカズワンの無謀な出港を止めるべきすべての人たちが、加害者となる。
では、被害者でも加害者でもない、つまり僕を含む「当事者以外の人たち」は、この事件と何の関係があるのだろう。
それは、当事者にならずに済んだことを喜ぶと同時に、当事者にならないためにどうすべきかを知りたいから。
そのためには、当事者たちが事件を起こし、事件に巻き込まれていった経緯を正確に知りたい。
もしかすると、自分が当事者になる可能性が有ったり、すでに当事者になりつつあるかもしれない。

だとすれば、一番大切なことは当事者の範囲であり、そこに自分が含まれるかどうかだ。
まず被害者の範囲だが、被害者本人だけでなくその家族や友人、取引先などの関係者となる。
この場合、冷たい海で沈没するかもしれない船に乗ってしまう人の関係者となるので、僕自身が否定できない。
次に加害者の範囲は、加害者本人とその協力者や従事者たち、そしてそれらを管理監督する人達など加害者を生まないようにすべき人達だ。
今回の事件なら、どうやら僕はこれらの人たちに含まれなさそうだが、僕が携わる仕事や活動の中に同様のリスクが無いとは言い切れない。
つまり、この事件だから当事者にならずに済みそうだが、いつ何時こうした事件の当事者になるかもしれないリスクを決して否定できないことになる。

では一体、この事件の顛末を知ることで、僕が事件の当事者にならずに済むためにできることは何だろう。
それは、被害者と加害者に分けて考えた方が良さそうだ。
まず、被害者にならないためには、被害を想定して行動を見直すこと。
おぼれて死ぬか、凍えて死ぬか、ケガや病気で死ぬかの違いが重要だ。
冷たい海で凍えて死ぬ被害を防ぐなら、凍えない装備をするか、船に乗らないことだろう。
この場合、船が沈むか落下するかは関係なく、天候や船の状態も関係ない。
今回の事件では、冷たい海だからこその対策が論じられることに、意義があると僕は思う。

次に、加害者にならないためには、何を想定すればいいのだろう。
加害者に被害は無いが、被害を生じた加害者責任がのしかかり、被害者の損害を賠償したり、事件による損失を被ったり、事件に起因する処罰や処分を受けるだろう。
だが、これらの負担を負う以前に、加害者になること自体が問題だ。
被害者に与えた生命や時間などの損失は賠償できないことを「取り返しがつかない」というからだ。
つまり、加害者にならないためには、被害者を生まないことに尽きる。
先ほど述べたとおり、被害を想定して行動した結果なら、たとえ被害にあっても被害者にならないはずだ。

たとえば、健康を害し、死亡のリスクまでも説明を義務付けられたタバコが、堂々と販売されている。
冬山で遭難して亡くなる人は後を絶たないが、そこに加害者や被害者は存在しない。
今やスポーツの域を超え、命知らずの超人技になりつつあるオリンピックの競技に、育ち盛りの子供を競わせて良いのかという議論は、薬物中毒や体罰虐待の被害を摘発する叫びかも知れない。
今朝のテレビで、TI氏が「冷たい海に船を出すこと自体が悪ではない」とコメントするのを聞きながら、僕は確かにそうだと頷いた。
善を勧め悪を懲らすのでなく、各自が望み各自が考えることで、取り返しのつかない被害でなく、やり直せる失敗にしていきたい。