3月末は、僕の関わるいくつかの団体が決算を迎える。
通常決算は、2か月以内にまとめれば良いことになっているが、それは未収や未払いの金額を確認するための猶予期間に過ぎない。
本来決算は3月中に行って、4月以降の予算も作成しておくべきだと僕は思う。
だから毎年3月と12月の月末は、僕の繁忙期になるわけだ。
だが、今年はコロナ騒ぎのおかげで予定がほとんどキャンセルとなり、決算作業に専念することができた。
この年度末、ほとんど出かけずに自宅作業に集中できたのは、コロナのおかげかも知れない。
コロナ騒ぎは社会に甚大な被害を与える一方で、助かったり得をする人も大勢いるだろう。
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だが、そんなドタバタも区切りがついて、新年度がスタートした。
コロナに立ち向かうのも大事だが、僕はコロナと戦うために生きているわけじゃない。
自分のチャレンジにこそ、一層の拍車をかけたいのに、コロナ対策という余計な仕事が増えてしまった。
それどころか、コロナのせいで移動や交流が制限され、自分のチャレンジまで思うように進められない。
これまでは、手帳の予定が消えるたびに作業時間が確保できて半分嬉しかったが、これからはそうは言っていられない。
予定を作れないということは、何もできずに時が経ち、人生の残り時間を無駄に浪費するばかり。
そんな焦りがストレスとなり、やがて不満が他人に向けられるようになる。
だが、コロナは誰のせいでもなく、中国を恨むのはお門違いだ。
結局行き場のない不満は、政治や行政に向けられる。
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新型コロナウィルスの感染を防止するために、飲食店やイベント会場の営業自粛が求められている。
そして、「禁止するなら保証せよ」という要求がまことしやかに叫ばれている。
だが、金銭で売上を保証するというのは、あくまで禁止する側の要望だ。
禁止される側がそれを求めるのはおかしいと、僕は思う。
ビル建替えの立ち退きなどで、店舗の売上を保証するのは、あくまで移転や休業に伴う期間だけ。
実際に休業すれば、経費が掛からない分得をするが、それは休業に伴う損害の補填や慰謝料などを含めた示談金のようなもの。
つまり、政府の側が「保証するから閉店せよ」と命令するなら理解できるが、「禁止させてやるから保証しろ」というのは本末転倒だ。
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もちろん保証を求めている人たちにしてみれば、「要請≒禁止」に対する悲痛な叫びだ。
だが、当面無期限の禁止など、保証できるはずがない。
欧米でそれがまかり通っているなら、むしろその方が無責任に感じられる。
保証もせずに、何でも断行する中国政府の方が、むしろ明確に責任を負っている。
さらに言えば、強い要請にとどめ国民の判断に委ねる日本政府の方が、「無責任という誹り」を受けることで責任を負っているともいえるだろう。
もちろん責任とは、結果に対する約束なので、こんな議論は水掛け論にすぎない。
本当のことは、この騒動が終わってみなければ分からないが、終われば間違いなく判明する。
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結局今、僕たちはどういう状況にいるのか、どこに向かっているのか、よくわからない。
何が成功で、何が失敗だかわからないし、何が正しくて、何が間違いなのかわからない。
つまり、何もわかっていない気がする。
でもこれこそが、まさにそこにいる証拠。
真っただ中にいるからこそ、客観的に見ることができない・・・「リアルタイム」とはこういうことだ。
かつて僕がビートルズ解散やベルリンの壁崩壊を見たように、あなたも今、世界の激震を目撃している。
かつて僕が会社の倒産で窮地に追い詰められたように、あなたも今、日常が破たんしようとしている。
判らないことや困りごとだらけの今こそが、大切なリアルタイムだ。
誕生日を迎えたことよりも、このリアルタイムをみんなと共有できることに、僕は最高の幸せを感じてしまう!!