ついに東京オリンピックの延期が決まった。
このまま開催にこだわって、コロナ対策を躊躇したり、結果的に中止を招くよりは良かった・・・と誰もが言う。
その直後、小池都知事が首都東京のロックダウン(都市閉鎖)を高く掲げ、「ロックダウンを招かないための外出自粛を強く要請する!」と声高に叫び始めた。
もちろんこれは、都内での感染者数がいきなり増加を始めたことを受けての表明であり、むしろ遅かったくらいの賢明な措置だ・・・と誰もが言う。
いま、新型コロナウィルスの感染拡大を抑止するには、この「誰もが言う=コンセンサス」が大切なのはよくわかる。
だが僕の心の中で強く頭をもたげる「釈然としないモヤモヤとした思い」もまた、誰もが感じているのでは。
これは「問題は何も解決していない」という「未解決感」ではないだろうか。
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オリンピック延期の理由を、安倍首相は「完全な形での開催のため」と言っている。
すでに聖火リレーなどのスタートが危ぶまれ、予定通りの開催が困難なことは誰の目にも明らかだ。
したがって、この中止理由が賛同を得るのは「当たり前のこと」を言っているに過ぎず、だれも反対できないからだ。
首相は「延期することで中止を回避した」と胸を張るが、それは絶対に違う。
「延期」は「開催を先送り」しただけでなく、同時に「中止も先送り」したに過ぎない。
「来年夏」と開催期限を設け、「今月中に新たな日程案を提示する」と行動期限を明示することで、あたかも前進しているように説明するが、それは「先送りの実現」に過ぎず、中止の回避はできていない。
オリンピックの実現=中止の回避には、コロナ騒動が沈静化して世界が平常に戻ることだ。
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IOCのバッハ会長は、オリンピック延期を発表する会見の最後をこう締めくくった。
「いま全世界の人類が暗いトンネルの中にいるが、オリンピックの聖火をそのトンネルの出口を照らす光にしたかった。東京オリンピックは人類がいまだかつてない難局を乗り切ったお祝いの場となる。世界の団結の象徴にしよう」
僕が素晴らしいと思ったのは、この言葉がオリンピックでなく、世界の団結を賛美しているから。
この難局を乗り切ったお祝いの場となることこそが、オリンピックの価値となるわけだ。
つまり、今こそ東京は、世界の先頭に立って新型コロナウィルスのパンデミックに立ち向かい、克服を果たさなければオリンピックができないことになる。
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そもそも僕は、単なる民間スポーツイベントに過ぎないオリンピックに、これほど多額の税金と労力をつぎ込むことに、まるで懐疑的だった。
だが、今回の延期に際し、バッハ会長の言葉を聞いて、急にオリンピックが好きになった。
新型コロナウィルス克服記念パーティとして、世界が祝うオリンピックを東京でやるのなら、それはホントに素晴らしい。
大切なのは、オリンピックの日程や段取りなどでなく、世界がどうやってコロナウィルスを克服するかということだ。
それは、このウィルスを天然痘ウィルスのように死滅させることなのか、インフルエンザのようにワクチンや特効薬を開発することなのか、毎年新たなウィルスが現れても対処できる世界を作ることなのか。
経済の破たん、医療の崩壊、そして自分を含む身近な人々の死という深刻な問題の先送りだけでなく、問題に対峙し克服したいと僕は思う。