承継と継承

漢字の順序を入れ換えてもことばとして成立する2字熟語は、意外と多い。

そして、「議会」と「会議」のように、なんとなく似た意味を持つものと、「会社」と「社会」のようなまるで反対の意味を持つ場合があるので

議を議論、会を集まると置き換えると、「議会は議論のために集まる(場所)」に対し、「会議は集まって議論する(行為)」となり、とてもわかりやすい。

斎藤毅『明治のことば』(講談社学術文庫)によると、古代中国語の「社」とは「土地の守り神」のことを表すので、「会」を「集まる」と言い換えれば、会社は「集まる社のこと」で社会は「社に集まること」となり、意味が反対になるのもわかるような気がする。

急にこんなことを言い出したのは、いつも使い方に迷う言葉があるからだ。

それは、何かを引き継ぐことを意味する「承継」と「継承」だ。

今日はこの2つの違いについて、きちんと考えてみたいと思う。

「会社」の場合と同じように分解して考えると、「継は引き継ぐこと」で、「承は承知すること」となる。

つまり、「継承は引き継いでから承知する」のに対し、「承継は承知してから引き継ぐ」となり、これはとても興味深い。

確かに「王位継承」とは、王の退位や逝去に伴い「継承者」が引き継ぐ行為で、これを「承継者」とは言わない。

これに対して、継承について学び備えること全体のことを「承継」と言い、継承者以外に多くの人が関わることになる。

僕は先日、一宮庵という料亭で「遺言書の説明会」を開催したのだが、これはまさに「相続という引き継ぎ」の前に遺言書を説明し、「遺贈に対する承諾(賛同)」を得るためのものだった。

遺言に基づく相続は決して珍しいことでは無いが、「事前に賛同を得る」というやり方はあまり聞いたことが無い。

つまり、通常の「相続」は、「承継」ではないと僕は考える。

むしろ「継承」の一種であり、「親族に限定する継承」という意味で僕は「相続≠継承」と言っているわけだ。

だとすると、相続を前提とする承継とは何だろう。

つまり、事業や財産を「親族に限定して承継する」ということだ。

考えてみると、相続が対象にしているのは財産=お金だけであり、事業は相続の対象外だ。

もしも、土地を財産でなく、事業資源として使うのなら、その継承は相続でないことになる。

以前このブログで、「会社」と「社会」について書いたときは、僕の思いを述べただけだが、今日は先述の『明治のことば』で少し調べてみた。

「社」とは「村の神様」のこと。

社をまつるための村人の集まりを「会社」や「社会」と呼んだので、この2つの熟語は本来同じ意味だった。

やがて幕末になり、西洋の概念を日本語に翻訳する中で、「会社」「社会」は、目的をする人々の集団のことを表すことばとして、使われるようになったようだ。

その後次第に、「社会」が人々の集団全体を表すsociety、「会社」が営利を目的とした人々の集団companyの訳語として使われるようになり、両者の分離は、1874(明治7)年から1877(明治10)年ごろだという。

「会社」と「社会」が分離してほぼ130年、今では「社会のため」と「会社のため」は、まるで違う意味で使われるようになった。

それに比べると、「承継」と「継承」の違いはまだヨチヨチ歩きで、その違いなど気にする人はほとんどいないだろう。

だが、同じことなら同じ言葉でいいはずだ。

言葉の違いに無関心なのは、世界の仕組みに無関心と同じこと。

これまでも、「」や「所有と所属」など、言葉の違いから世界の仕組みを考えてきた。

今日の「入れ替え熟語」が日本語の独自性だとしたら、これはちょっとした秘密兵器になるかもしれない・・・と僕は思う。