600人の家族

今月ついに、(しょうけいかん)クラブの会員数が600人を突破した。

笑恵館は「会員制のみんなの家」、つまり「会員600人の家」ということになる。

ここでいう「みんなの家」の「の」は、所有の「の」だが、笑恵館は「600人の誰もが全部を所有する家」であり、誰もが「600分の1」ずつ所有する「シェア」とははっきり区別する必要がある。

ところが、日本語の「」は「シェア」と翻訳され、その区別はあいまいだ。

例えば、夫婦が家を共有するとき、それは50%ずつ持っているのか、ともに100%ずつ持っているのかは区別できない。

だがそれを「夫婦」という組織に置き換えるとどうだろう。

家を100%所有する「夫婦」に所属する夫と妻は、いずれも100%所有することになる。

「夫婦」とか「家族」を、僕たちは人の関係性やつながりの側面から捉えがちだが、これを組織と考えることで、この問題はすっきりと理解できる。

AさんとBさんがカーシェアを利用したとする。

もしもAさんとBさんが夫婦だったら、どちらが借りても同じことで、シェアの比率に意味はないが、AさんとBさんが別の家族なら、シェアの比率に応じてAとBの二つの家族が時間をずらして使うことになる。

つまり、シェアとは他人同士がすることだ。

例えばシェアハウスは、他人同士が1つの家をシェアすることであり、家族が一緒に住むことをシェアとは言わない(今は総有と呼ぶ)。

笑恵館を「シェアハウス」と呼ばない理由は、まさにここにあるのだろう。

つまり、笑恵館の会員は、すべて笑恵館クラブに所属する家族なので、他人同士のルールでなく家族間のルールに基づいて笑恵館を利用する。

一方、笑恵館を「住み開き」というが、すべての人に開いているのは食堂やトイレなど施設の一部で、残りの大部分は会員=家族に対して開いているに過ぎない。

だが、家族に対して家を開くのは当たり前のことで、笑恵館が開いているのは家でなく、家族の方だと言えるだろう。

家族を開くとは、誰でも家族になれるということであり、この考えに賛同する人が600人を超えたというわけだ。

したがって笑恵館は、決して社会に対して無防備に開いているわけではないが、大勢の会員に対しては緩やかに開いている。

そこで、この会員(家族)に対し、閉じる権利を有償で与えるのが笑恵館のビジネスだ。

笑恵館アパートの住人は、契約することでカギをかけられるようになり、レンタル利用者は予約することで、部屋や場所を占有利用することができる。

普通のアパートは他人同士が暮らすので、普段は閉じたアパートを契約することで開けられるようになるのだが、笑恵館はその逆と言える。

そして、笑恵館のすべてのサービスは会員を対象としているので、笑恵館の収入はすべて会員から得ている。

笑恵館を訪れる一般来館者に対する有償サービスは、すべて会員によるもので、笑恵館の収益には関係ない。

また、笑恵館クラブと、運営団体の日本協会は、どちらも非営利で経営している。

笑恵館を介して得られる収入はすべて笑恵館の維持、整備そして利用促進のために使われる。

笑恵館クラブを大きな家族と考えれば、笑恵館の収益はすべて家族のために使われる。

これは当たり前のことであり、妻や子供たちから収益を上げる父親など僕は見たことがない。

だが、パン屋をはじめとする笑恵館で事業を行う家族たちは、笑恵館に利益を還元するわけではないし、むしろその多くは営利ビジネスで頑張っている。

これはまさに、社会における営利・非営利の関係の縮図ではないかと思う。

営利事業が他人を相手にする対外事業なら、非営利事業はまさに身内を相手にする対内事業だ。

外から得た利益を身内で配分するのが営利事業で、身内から得た利益を身内のために使うのが非営利事業と言ってもいい。

家族の崩壊を、「身内の喪失と孤立化」と考えれば、僕の取組は「身内の創出による孤立の解消」とも言えるだろう。

だがそれは、すでに「コミュニティ」や「地域社会」として各所で取り組まれているはずだ。

あとはそれを「家族=身内」と思い、非営利の関係になることだ。

「地域創生」の名のもとに、あらゆる自治体が「定住促進」に取り組んでいるが、果たして転入者を身内として迎えているだろうか。

いくら顧客を増やしても、いくらテナントを増やしても、身内が増えなければ地域は滅びる。

地域とは、大きな家族のことだから。

笑恵館の家族が600人を超えたことの、意味をきちんと考えたい。

損得勘定の寄せ集めでなく、互いに支えあう身内を増やすことが、地域社会を作ることにつながるのではないかと僕は思う。