助けることと手伝うこと

今朝メッセンジャーを開いたら、笑恵館メンバーのMさんからこんな書き込みがあった。

「日曜に失礼します。 実はお願いがあります。笑恵館でピアノ(縦型アップライト)を預かってもらえませんか?

実は、7月に多摩川に引っ越す事になり部屋も決まったのですが、エレベーターにピアノが乗らず 困っています。期間は7月12日から2年間、”ゆうの”が弾きたいので、たまに伺って弾かせて頂けると尚助かるのですが、、

困っています。」

そこで早速「笑恵館には場所がないので、そのまま告知して場所を探しませんか?」と返信したところ、

すぐに「はい、告知させて下さい。」と返事があったので、「そしたら、ピアノの前で”ゆうの”ちゃんがお願いポーズをしてる写真を下さい!」と返したら、「はい、分かりました。今外なので、帰りましたら送りますのでよろしくお願い致します。」と言ってきた。

このやり取りをしていたら、僕はなんだか気分がよくなって、写真が届くまでに今の気持ちを書き留めておきたくなった。

そして写真が届いたら、それと一緒にブログに投稿しよう。

まず、この相談の面白さは、「エレベータにピアノが乗らない」という困りごとだ。

つまり、そもそもの問題は「ピアノを上階の部屋に持ち上げるにはどうしたらいいか?」のはず。

ところがMさんはそれを諦めたのか、気付かないのか、いきなり「笑恵館で預かって欲しい」と言ってきた。

さらに面白いのは、「ゆうのちゃんが引けなくなることこそが本当の問題で、時々弾かせていただければ解決する」という発想だ。

Mさんには申し訳ないが、この願いは支離滅裂というか、突っ込みどころ満載の、ちょっとトンチンカンなお願いだ。

だが僕は、そこに魅力を感じて飛びついて、迷うことなく「場所探しを手伝いたい」と申し出た。

我ながら「それはなぜか」と不思議に思い、きちんと考えて説明してみたくなった。

そもそもこういう困りごとを、相談してくるMさんのような人は、少なくとも「僕が助けてくれるかも知れない」と思っているはずだ。

そうだとすれば、それは「僕に救われた経験がある」か、「僕が誰かを助けるのを見たことがある」か、「僕が誰かを助けた自慢話を真に受けた」かのいずれかだろう。

いずれにしても、僕はこの申し出を断るわけにはいかない。

「すみません、笑恵館には場所が無いので、他をあたってみてください」などと答える人間に、僕は絶対なりたくない。

困ったことを相談するのは、困った心を慰めたり、困った考えを整理したり、困った現実を解消する手助けを求めるためだ。

もちろん僕は、何でも解決できるスーパーマンじゃない。

でも、どんなに難しいことでも、相談に乗って、その解決を手伝うことなら必ずできるはず。

僕は「何でも解決できる男」にはなれなくても、「何でも手伝う男」なら今すぐになれると思う。

かつて僕は、「世田谷世界相談所」という事業に挑んだことがある。

これは、身近に暮らす外国人が困っていたら、僕らが作った相談所に連れて行こうという取り組みだ。

もちろん、困りごとを聞くどころか、言葉を理解することから始めなければならないので、問題解決などおぼつかないだろう。

だが、なぜこんなことを始めたかというと、外国人たちから頼まれたからだった。

当然のことながら、彼らは困りごとがあれば、まず役所を訪れる。

ところが、役所では解決できることとできないことがあり、出来ないことには何も対応してくれない。

自分で解決できなくても、解決できる人を探したり、解決策を一緒に考えるなど手助けの方法はたくさんある。

何でも解決することなどそもそも不可能なことであり、何でも相談に乗ることこそが、必要なことのはず。

このwebサイトのトップにも書いてある通り、僕は「疑問があるから答えがある」という言葉が大好きだ。

解決できない疑問とは、まさに答えの見つからない疑問のこと。

だが、そもそも答えが見つかる疑問など、疑問のうちに入らない。

答えが見つからないこそ疑問のはずだと、僕は思うけどどうですか?

さて、そろそろMさんから可愛い写真が届いたぞ。

ゆうのちゃんが時々ピアノを弾けるよう、あなたならどうすればいいと思うだろう。