巨大な変化と小さな永続

今から6年前、僕はTさんからの相談を受けた。

それは、自分の死後もやり続けて欲しいという相談だった。

僕はこの「的な土地活用」という相談そのものに衝撃を受けたことをよく覚えている。

それこそが「現代の日本が失ったもの」だと直感したからだ。

土地活用とは、人が地域で暮らすことそのものだ。

その暮らしが永続性を求めるのは当然のこと、土地も地域も捨てられていく。

永続とは終わりの無いこと。

笑恵館のようなちっぽけな施設はもちろんのこと、国や社会も終わって欲しくない。

それでは「終わりをもたらすこと」とは何だろう。

終わりをもたらすのはだと思いがちだが、そうではない。

いくらうまく行ってもいつかは失敗するかもしれないので、うまく行ってるうちにやめることがだ。

つまり、成功するには終わりが必要ということになる。

確かに、成功しなければいつまでたっても終われないかもしれないが、成功の無い永続など意味がない。

一方、失敗で諦めればそれで終わりだが、諦めない限り終わらない。

つまり、終わりを招くのは失敗そのものでなく、失敗が生みだす「諦め」が原因だ。

諦めなければ終わらない、変わらないことが継続だ。

「生き残るためには変化が必要」というが、「存続」と「継続」は意味が違う。

もしも京都の金閣寺がラーメン屋になって存続しても、それはすでに金閣寺とは言えない。

残したい本質は、変化しては意味がない。

永続とは、「変化しないこと」とも言い換えることができるだろう。

そして、永続とは人が死んだ後も続くことなので、個人に属することはない。

どんなに小さな事業でも、時間軸で考えれば不特定多数の人たちが関わる公的な事業となる。

広いグローバル・世界であれば、瞬時に多数が関わる公共性を持つが、狭い地域の公共性は、まさにこの永続性なのかもしれない。

地域の特徴とか、魅力と言われるものは、決して一時的なものでは無い。

地域独自の気候風土など、不変だからこそ、その変動が問題となる。

世界が変化を意味するのに対し、地域社会はまさに変わらないモノのことを指す。

巨大でダイナミックに変化する世界を生き抜くのがグローバルなビジネスなら、地域独自の不変の価値を守ることがローカルビジネスの目指す道なのかもしれない。

巨大な世界で君臨し続けることは至難の業だが、小さな地域で君臨するのはむしろ自己満足との戦いだ。

たとえどんなに小さなビジネスでも、変わらない核(コア)を見つけ出し、それを守る仲間が集まれば地域社会が成立する。

世界中の誰もが挑めるビジネスは、そんなビジネスではないだろうか。