地主の学校について、様々な人と話すうちに、素朴な疑問が湧いてきた。
結局松村さんは何をやりたいのか?・・・と。
確かに「地主」という言葉自体がもたらす違和感とか、意外性こそが「地主の学校」の目的なのかもしれない。
例えば、地主と言われても、多くの土地所有者が実感を持たないことはすでに何度も述べてきたが、それは継承でなく売買で土地を手に入れたから。
つまり、売買することで失われるものがあることを伝えるためだ。
また、地主に関する法律や学問が無いことも、社会が地主を忘れていることを如実に表している。
「地主」が現代社会の矛盾を顕在化するキーワードであることに間違いないが、果たしてそれが答えなんだろうか。
地主とは何か…などを学び、それからどうしようというのか。
まさにそこが問題だ。
僕は地主の学校を、「地主を学ぶ」学校ではなく「地主を育てる」学校にしたいと思っている。
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地主を育てるのはなぜか…それは社会を変えたいから。
政治も暮らしも原発も、何もかも諦めて放置している社会は耐え難い。
こうした社会を変えるには、違う社会を作ればいい。
はじめは小さくても構わないから新しい社会を創り始め、やがて腐った社会から乗り換える選択肢になればいい。
周囲とは違う新しい社会とは、独立する国のようなもの。
その担い手として、僕は地主に狙いを定めた。
まずは自分の家や家族から、新しい社会にすればいい。
自分の店や会社だって、新しい世界を作ることはできる。
やがて周囲の人たちも仲間になれば、小さな地域が国になり、自分の意志でルールを定め、外交しながら周囲の承認を得ることが、独立だ。
先般酔った勢いで顔を怪我した加子母村は、まさに独立を目指すエリアとして訪問した。
自由とは、所有することで得られる権利のこと。
地主とはまさに自分の世界を作れる人のことだ。
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では、誰を地主にしたいのかというと、大きく分けて2種類の人たちだ。
まずは土地を持っていないけど、自分の土地で新たな世界を作りたい人。
賃貸では家賃がかかる上に期限も切られてしまう。
自分の土地を持たなければ、長い時間をかけて自分の夢を叶えるのは難しい。
まして、永続的なビジョンを描くことなど賃貸では不可能だ。
そしてもう一方は、すでに土地を持っているのに夢を描けずにいたり、夢を描いてもそれを手伝う継承者がいない人だ。
夢を描けずにいる人は、夢を描く人と組めばいいし、その人たちに協力を仰ぎ、継承してもらえばいいと思う。
夢を持たず、とりあえず事業化したため収益が上がってしまい、節税や相続に悩む方たちこそ、その力を使って世界を作る地主になっていただきたいし、その家族や子供たちがともに夢を描き、継承者として育って欲しい。
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こうして地主になった人には、自分の本拠地を作って欲しい。
それがビジネスなら「家業」、それが家族なら「実家」、それが地域社会なら「故郷」と呼んだらいい。
これまでの本拠地を守り保存するのでなく、今後守っていくべき本拠地を新たに作り出して欲しい。
そして、新しい本拠地は、家業と家族と故郷が融合した新しい国になるはずだ。
子供を学校や塾で教育し、待遇の良い会社に就職してキャリアを積み、老後の資金を溜め込んで優雅な施設で死んでいく現代流の生き方は、次世代に継承することのできないはかない仕組みだ。
むしろ社員の子供たちを会社がエリート教育し、社員の家族同士が子育てや介護も協力し合い、取引先や顧客を巻き込んでまちを作っていくようなビジネスこそが、僕の夢見る国づくりビジネスだ。
僕たちがみんなで地主になることで、真の主権者=王となり、役所を下請けに使う社会を僕は目指したい。
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さて、こんな「地主」を作ることは、正しいことか…と、たぶんあなたは気にするだろうが、それこそまさに「どうでもいいこと」だ。
正しいかどうかは、あとで判断すればいいし、僕たちが死んだ後、後世の人たちが勝手に評価すればいいことだ。
もちろん現代において、みんなで定めた法的悪事や不正を行うのは、絶対にしたくないが、それ以外のすべてのことは「自由」なのが世界のルールだ。
僕があえて国づくりと呼ぶのは、ゆがんだ日本国内ルールには少しくらい逆らっても、世界基準で生きていきたいと思うから。
自分が良いと信じていても、許せないという人が訴えてくるだろうが、それは裁判になろうとも堂々と議論をし、敗訴したってかまわない。
その議論に大勢が賛同すれば、やがて法律は変更され、世界は変わっていくだろう。
もしも「地主」が歴史の悪役ならば、むしろ忘れてはいけないはずだ。
僕は地主を再興し、再度世界に信を問いたい!