解決しゃべり会 が目指すもの

第3金曜日の夜は、Kさんがで主催する「解決しゃべり会」に参加する。

もとはと言えば、「老後」という暗い未来イメージを明るくできないかとの思いから「OMORO☆TOMORROW」というサイトを立ち上げ、その取材で笑恵館にやってきたKさんに、「笑恵館でオフ会やりませんか」と提案したのがきっかけでこの会は始まった。

これまで誰もが当たり前に受け入れてきた「老い」に対する不安や抗いを、アラフォー世代以降の人たちが面白おかしく語る飲み会だ。

参加者が順に自己紹介を兼ねた挨拶をする中で、僕の番が回ってきて、このメルマガのことを話した。

毎週日曜日に発行すること、読んだ方のメリットより僕自身の修行になりつつあること、そしてそろそろネタを決めないとまずいことなど。

僕の次は、参加2回目のAさんが住まい探しの話として、先日訪ねた伊豆の「ドットツリープロジェクト」の話をしてくれた。

素晴らしい取り組みだが、Aさんには「暫定的な答え」にしか思えないので、入居するつもりはないと。

僕はこの言葉に「ピクン」と反応した。そしてこの記事を書くことを宣言した。

Aさんもまた、暗い未来に気付き始めたアラフォー世代だ。

自分自身の衰えを感じると同時に、社会での役割も若い人たちにとって代わられていく感じ。

横浜市内のマンションで「他人から邪魔されない暮らし」をしていたはずが、次第に「忘れられ放置された暮らし」に思えてきて、「孤独死は構わないが、放置られ腐った状態で発見されるのは耐え難い」と言う。

そんなAさんが訪ねた「ドットツリープロジェクト」とは、事業型NPOサプライズの企画の下、地元企業の古藤田グループが運営する「事業所付き住居の集合住宅」で、事例を輩出するため様々なサポートも受けられるという。

だがまさに「成功事例として2・3年後にここを出て、地域社会に定着して欲しい」という誘いが腑に落ちない。

「2.3年」という期間が「暫定的」に思えたという。

確かにこのプロジェクト、「地域ビジネスを創出する」とはいうものの、それらの芽を「多数輩出する」ことが目的だ。

この微妙なニュアンスにAさんは反応したに違いない。そして僕も、この違和感に反応した。

こうした施設が地域の活性化に寄与する可能性は確かに高い。

新たな人材が他所から移り住み、そこでビジネスを始めることは、地域の活性化に不可欠だと思う。

しかしここで注意しなければならないのは、「こういう施設があれば、そうなるのか」という因果関係だ。

言い換えると、「こういう施設があれば地域が活性化する」という十分条件かどうかだ。

僕がこう言うと必ず言われるのは、「そんな無理を言っちゃいけない、必ず地域が活性化するとか、成功を保証するとか、十分条件なんて無理に決まっている」と。

しかし「馬鹿を言っちゃいけない」とはこちらのセリフだ。

十分条件でないということは「一か八か」ということか。

「何でもかんでも」と言っているわけではない、厳しい条件が付いてもかまわないから、「必ずうまくいく」のがビジネスだ・・・と僕は思う。

現にこのプロジェクトは、「多数のビジネスを輩出する」という目的は達成するだろう。

しかしそれで地域が活性化するのかは、まるで保証の限りではない。

こうして全国の地域活性化は、出来もしないのにお墨付きを得た事業に莫大な税金が投じられている。

やはり資金を投じてやるからには、その実現がまぐれでは困る。

歳を取ったからこそ未来が気になり始め、「終の棲家」とか「生涯続けるライフワーク」という言葉が気になるようになったAさんのような方が、このことに敏感になるのはいいことだと思う。

「暫定的な答え」は「答え」ではない。

「暫定的な成功」は成功とはいえない。

答えとは「最終的な答え」であり、成功とは「究極の成功」のことだ。

少なくともそれは何かを考え、その実現を目指さない限り、永遠にたどり着けるはずがない。

年を取り、次第に未来が暗くなるのは、未来が暗いのでなく見えないからだと僕は思う。

では、若ければ見えるのかと言えばそうではなく、むしろ若者はまじめに未来など見ておらず、明るいも暗いも考えていないだけのこと。

ところが年を取るにつれ、いやでもゴールという未来が見えてくる。

ゴールとは終わりのこと、終わりとは死のことだ。

「解決しゃべり会」は、まさにそんな議論の場だ。

年を取ることで見えてくる「暗いゴール」を、どうすれば「明るいゴール」にできるのか。

それはまず「暗いゴール」を直視して、何が暗いのか、本当に暗いのかを検証することかもしれない。

そして、そのゴールを明るく照らすにはどうすればいいのかを考えることかもしれない。

そして、そのゴールのさらにその先の未来を明るくすることで、明るい「ゴールの先」を目指して生きる方法もあるんじゃないかと、僕は思う。