A13.who:人間と相手

人間とは私たち自身のこと。私たちは、自分自身から世界を考えるだけでなく、相手の身になって物事を考えることができます。相手が何を感じ、何を考えているかを知ることができれば、そんなことをする必要はありませんが、残念ながら私たちにはそれができないので、「自分がもしも相手の立場なら…」と想像するのです。もしも自分が相手に褒められてうれしいなら、相手も自分に褒められればうれしいかもしれません。考えてみれば、私たちは何も知らない赤ん坊のころから、周囲との関係において自分が感じることと自分がしたりされたりすることとの関係から、相手の思いや考えを推し量り、その試行錯誤を繰り返しながら感じることとやることの関係を学んできたわけです。ですから、どんなに相手の思いを推し量ったとしても、それは自分自身の思いに過ぎないと思います。

しかし同時に、このことは「私たちが誰にでもなれる」ことを意味します。一度も会ったことのない人でも、すでにこの世にいない人でも、空想上の人にでも、テレビに出てくる人や新聞に書いてある人でも。さらに言えば、それが人間でなくても、犬や猫、草や木、山や川にだってなることができます。つまり、世界中の何にだって身を置いて考えることができるわけです。そこで私は、「相手の身になる」という言葉から、自分自身以外のすべての人間を「相手」と呼ぶことにしました。「相手」には、大別すると2種類あります。それは自分に対し、何らかの反応を示してくれる相手と、そうでない相手です。前者を「あなた(2人称)」、後者を「彼・彼女(3人称)」と呼ぶことは以前お話ししました。両者の違いは、コミュニケーションができるか否か、つまり相手の身になって考えたことが正しいかどうかを確認できるかどうかの違いです。

私たちの多くの判断は、こうした「相手の身になること」で考え出した結論です。相手の意見にじっくり耳を傾け、納得のいくまで聞いたうえでの判断など滅多にありません。でも、考えてみれば、相手だって同じこと。誰もが自分の価値基準で相手のことを判断しているにすぎません。問題は、そのことを知った上で、自分が相手に「何を感じ、何を考えて欲しい」と望んでいるのかをきちんと考え、相手がそうなったことをどうやって確認するかということです。この講義では、独りよがりから抜け出して、人間の世界を理解する方法について考えます。

 

A13_1.能動と受動(what)

自分のすることが相手からどのように思われるのかを考えることは、何かをする側とされる側について考えることです。いじめっ子に対し、「あなたが同じことをされたらどう思う」というのは、まさに「いじめられる側の身になれ」ということです。この「するとされる」の関係を「能動と受動」と言いますが、相手の身になるとはこの関係を反転することだといえます。考えてみると、私たちが悲しいとか嬉しいと感じるのは果たして自分のことなのでしょうか。テレビで稀勢の里が優勝するのを見て涙してしまうのはなぜなのか。多くの場合、自分が横綱になったときのことを思い出したからではなく、テレビを見ているうちにあなたが稀勢の里の身になったためだと思います。

でもこの場合、「するとされる」はどのように反転したのでしょう。なぜ「稀勢の里は大変だ、日本人横綱の責任は重い」と感じるのでしょうか。それは、あなた自身がそう思っているからです。あなた自身が稀勢の里にプレッシャーをかけている張本人だからこそ、稀勢の里の涙の意味が分かるのではないでしょうか。人種や宗教など様々な偏見や差別が無くならないのは、私たち自身が偏見を持っているからです。公務員はけしからん、天下りなどとんでもないと言いながら、就職人気業種のトップは地方公務員なんです。素晴らしいことも、けしからんことも、人間の世界はすべて自分の心から湧き出すことで出来ています。誰かのせいで被害にあえばその時は被害者ですが、そのせいで誰かに迷惑をかければあっという間に加害者になってしまいます。能動と受動はいつも背中合わせなのが人間の世界です。

ですから、人間の世界を考える上で大切なのは、この能動と受動を固定化せず、今自分はどちらなのか、相手側からどう見えるのかを考えることだと思います。自分のやりたいことが相手からどう見えてどういう意味を持つのかを考えるだけでなく、自分のやりたいことは相手からどう思われてどうされたいのかを考える必要があります。自分の思いを伝えるということは、どうすれば自分と同じことを相手が思うようになるのかを考えなければ実現しません。能動と受動を自在に使いこなすことで、一見複雑に絡み合う人間の世界を解きほぐしていけると思います。

 

A13_2.欲求と満足(why)

人間が相手に対し何かをしたり、相手から何かをされることで何かを実現するのは、なぜでしょう。それは、願いが叶った状態を現実にするには相手の協力が必要だからです。例えばレストランで食事をしたければ、従業員に注文を伝え、料理を運んできてもらわなければなりません。楽しく食事をしたければ、相手にも楽しくしてもらわなければなりませんし、静かに食事をしたければ、みんなに静かにしてもらわなければなりません。その場合のみんなには、レストランに置いてあるテレビや、前を通る自動車も含まれます。自分の願う状態を実現するということは、全ての相手にその状態になってもらうことでもある訳です。

それでは、誰かの願いが叶い、満足のいく状態になったかどうかを確認するには何が必要でしょうか。それは、願いが叶い満足できるのがどういう状態かを、事前に知っておくことです。そして、起きたことと同じことが事前に説明されていれば、それを実現と確認できます。したがって、実現を目指す人は、その願いが叶った状態を、誰にでもわかるよう事前にかつ具体的に説明しておく必要があります。この誰にでも同じく理解できる具体的な現実が「客観」で、それに対する自分の思いが「主観」です。ですから実現とは、主観的には自分自身の願いを満足にすることであり、客観的には事前に説明したことをその通りの現実にすることです。ただ、客観の対象はたった一つの現実なので誰にでも説明できますが、主観の対象は個別の自分自身なので自分の目的は自身で定義するしかありません。先ほどの事前の説明とは、むしろ宣言に近いものかもしれません。

このことは、「安心と安全」を例にとると分かりやすいかもしれません。安心とは、「安らかな心」という私たちの願いですが、安全とは「すべてが安らか」という現実の状態です。私たちはこの二つの言葉を互いが求めあう主観と客観として用いています。ここで重要なのは、安全とは、「結果的な偶然の無事故無災害」の状態を指すのでなく、「事前の宣言に基づく無事故無災害」を指していることであり、「安心」とはその信頼感を意味するに等しいことです。このように、主観的に求めたことを客観的な要求にし、それに対して与えられた客観的な結果こそが主観的な満足を生み出すのかもしれません。大きな満足を与えるには、まず大きな欲求をはぐくむことが大切だと思います。

 

A13_3.攻めと守り(how)

自分だけの力で実現できないのなら、相手の協力を求めるのが人間の世界です。しかし、他人から求められることを何でも受け入れ、全てに協力するわけにもいきません。そこで、何を求め何を我慢するか、何を受け入れ何を拒絶するのか、という駆け引きというか「攻防」が、人間の世界の実現の方法だと考えられます。「攻める」という言葉には、「する」よりも強い何かを感じまが、その強さに対処するのが「守る」とか「防ぐ」という言葉です。「攻める」が「たとえ拒絶されても何かをすること」だとすれば、「守る」は「何かをされないように防ぐこと」だと思います。つまり、「する」は相手がいなかったり、いたとしても全く拒絶されずに受け入れてもらえた場合のことであり、むしろ多くの場合はそこに少なからず「攻防」が発生すると考える方が自然に思えます。

人間にとっての実現が、欲求を満足させることだとすれば、欲求から始まる攻防は、満足できる決着に至る必要があります。そこで問題は、誰の欲求を満たすのかということになります。もしも自分だけ満足できれば良いのであれば、邪魔な相手を徹底的に攻撃し叩き潰せばいいかもしれません。でも、相手にも満足して欲しいと願うなら、一体どうすればいいのでしょうか。それを知るためには、相手が満足したかどうかをどうやって判断するかを考えなければなりません。つまり、相手自身が望んだ満足ではなく、自分が相手に対して望んだ満足の状態がどういう状態かということです。例えば「相手に喜んでもらいたい」と願うなら、相手が「喜んだらどうなるか」を決めなければなりません。それは、相手が「笑うこと」、「何度も来る」、「金を払う」など様々です。あなたが望む相手の満足を具体的に説明するには、これらの現実を列挙することしかできないと思います。そしてそれは、相手にとっても同じこと。相手の満足を相手の思いや考えで説明するなど不可能です。結局自分と相手が共有できるのは、頭や心の主観的な中身でなく、具体的な行為や周囲の状況など客観的なことしかありません。

これら満足の状態を示す具体的な状態を「結果」と言いましたね。攻撃や防御といった行為がもたらすものは、最終的な満足ではなく、それを表す結果です。ですから、これらの結果から、そのもとになる原因を突き止めれば、自ずと何をすべきかがわかってくるはずです。相手に笑って欲しいのは、笑ってくれないこと、何度も来て欲しいのは、リピート率が低いこと、そしてお金を払って欲しいのは、お金を払ってくれないことが原因です。そしてこれらの原因が、あなたの欲求と深く関係しています。しかしここで考えなければならないのは、これらを原因をもたらすのは「だれ=自分、相手」なのかということです。「自分が笑わそうとしても相手が笑わない」と、「相手が笑いたいと思っているのに笑えない」は、まるで違うことです。常に「だれ」を考えることが、人間の世界では重要です。自分が攻撃しているなら、防御しているのは相手の方で、これに対して相手が反撃してくれば、こちらはそれに対して防御しなくてはなりません。「専守防衛」と「攻撃は最大の防御」という2つの言葉は、正反対の意味であり、これらはどちらかが正しいのでなく、単なる選択肢にすぎません。むしろ私たちは、「最良の防御」になるように攻撃し、「最低の防御」となる攻撃は控えなければなりません。人間の世界において、攻防という戦いは欠かせませんが、その終結によってより良い世界を作ることが目的なのだと思います。

 

A13_4.丁寧と尊敬(who)

丁寧と尊敬は、人間関係の中でも「だれ(who)」と密接に関わっています。いずれも「相手がだれなのか」によって変化する概念です。これらは日常生活の中で「丁寧語」や「敬語」という言葉遣いの問題として避けることのできない問題です。特に日本語は外国語に比べその取扱いに厳しいようで、丁寧語と敬語を使いこなすことが社会人のたしなみだと言っても過言ではありません。相手に応じて正しく使い分けないと、日本人かどうかを疑われても仕方がないほど、人減関係に影響を及ぼします。その理由を、これまでの議論に沿って説明したいと思います。

能動と受動のいずれかといえば、丁寧と尊敬は能動です。これを相手の立場で受動的に考えるとどうなるでしょう。丁寧の反対は乱暴で、人は初めて会った人からいきなり乱暴にされたら腹が立つでしょう。でも、回を重ね会ううちに、丁寧な言葉や態度が粗雑や乱暴になってくるのは、決して関係が悪化しているのでなく、むしろ親しくなった証です。一方、尊敬の反対は謙遜で、人は初めて会った人から尊敬されても軽蔑されてもなすすべがありません。でも、回を重ねて会ううちに、目上の人を尊敬し、目下の人に対しては謙遜する関係になっていきます。この違いは、丁寧が相対的な距離関係で、尊敬が絶対的な上下関係だと僕は考えます。相手との距離は、歩み寄れば近づくし退けば離れますが、上下関係はそう簡単には変化しません。

では、丁寧と尊敬は何を欲求し、どうなれば満足するのでしょうか。親しくなったり険悪な関係になると相手に乱暴な言葉を使うようになるのであれば、丁寧が目指すのは「親密」でも「険悪」でもない「適度な疎遠」だと言えるでしょう。一方で、敬語は、相手に応じて尊敬と謙遜を正しく使うことが求められいるだけで、誰もが尊敬されなければ満足できないわけではありません。このように、人間の満足とは、遠いか近いか、高いか低いかではなく、相手にふさわしい絶妙な距離や適正な上下といえるでしょう。そのバランスを求めて、人間は攻めたり守ったりするわけです。距離を調整するには丁寧にしたり乱暴にしたりすることで親密と疎遠の間の普通の関係を目指し、上下関係においては自分が強ければ謙遜し、自分が弱ければ尊敬することによって対等を目指しているのだと思います。

転職し、初めての営業先でやっとのことで会ってもらえた社長さんが、一番仲の良かった昔の悪友だったと気づいた時、「お前、久しぶりだな!」とは言えません。きっと適度な距離を置き、「どうぞよろしくお願いします」と最敬礼をすると思います。でもやがて、面談が済んで二人きりになったとき、「お前、偉そうにしやがって!」と二人は抱き合うかも知れません。人間は、たとえ自分が弱くても、強い人と親しければ力を持つことができるし、たとえどんなに強くても、弱い人たちと親しくすれば多くの人と親しくなれたりするものです。人間関係とは、丁寧と尊敬の両方を使いこなすことで、上下と遠近という立体に広がる世界のことなのだと思います。

 

A13_5.利害と損得(where)

「利害と損得」もまた、「丁寧と尊敬」と同様に相手によって変わる関係を示す言葉です。でもそれは、相手が「だれ(who)」なのかではなく、どういう人か・・・つまり属性の違いである「どこwhere」に属する人間関係と言えます。「損得」は、相手がいなければ生まれない概念ですが、相手と自分のどちらがより得をしたかという比較をしているわけではありません。例えば、100円の水に1000円出せと言われても、900円も損してまでジュースを買おうとは思いませんが、もしものどが渇いていなければ100円で買うことすらしませんし、災害時の被災地では1000円の水が飛ぶように売れるのも事実です。つまり、損得とは、自分の中で損(相手に与えるもの)と得(相手から得るものの)を比較していることに他なりません。また、利害とは、自分の損得と、相手の損得の関係です。自分が得をすると相手も得をするのであれば「利害が一致(味方)」、自分が得をすると相手が損をするのであれば「利害が反する(敵)」となります。そして、利害の判定の元となる損得が自分自身の問題である以上、利害関係もまた「相手が誰か」ではなく、「自分にとってどういう人か」によって決まってきます。

したがって、能動と受動でいえば、「自分が損する・得する」という意味で損得も利害も受動的と言えます。でも、「相手を利する・害する」という意味で利害関係を能動的に使うことができます。利害一致の関係であれば、自分に得なことをすればするほど相手に得をさせることができます。例えば「信頼関係」とは、互いが相手の言うことを信用する関係のことです。先日、ある人の「信用するということは確かめないこと」という言葉を聞いて驚きましたが、確かにわざわざ確認する必要がないことを得と考えれば、互いが信用することで利害が一致します。他方、「損して得取れ」という言葉は、「利害相反」の場合に使う言葉です。相手の得が自分の損になるのであれば、自ら進んで損することで、相手に得をもたらすことができます。このように私たちは、相手の身になって損得を考えることにより利害関係を理解し、それを活用して相手の損得をコントロールできるのだと思います。

こうした損得に関する欲求に対し、満足を提供することがビジネスの方法です。先回説明した丁寧と尊敬が求める「親密や嫌悪(好き嫌い)」が極めて主観的だったのに比べると、損得や利害が生み出す「敵と味方」のような関係は、数値化や形式化が可能な点で空間的(where)な欲求だと言えます。好き嫌いが定性的なのに対し、敵と味方が定量的と言ってもいいと思います。例えば、同じ費用で雇える人が1人と2人では、2人の方が得ですが、同じ値段の鈴木さんと田中さんでは単純に損得は測れません。これが「だれ(who)」と「どこ(where)」の違いです。鈴木さんと田中さんの損得を比較するには、能力や体力などを具体化(数値化)していく必要があります。そうすることにより、欲求と満足の双方を具体的な原因と結果に変換し、実行することができるようになります。現状の戦力分析(原因)と、必要な戦力想定(満足)を行い、そのギャップを埋めるのが採用です。そして、満足のいく採用を実現し、その人材の能力を発揮させるには、相手の損得を十分に考慮しながらの自分との利害一致をアピールし、相手の得を実現するよう努めなければなりません。

自分の望んだ状態を、相手が自ら求めるよう仕向けることが、人間の世界での実現です。「あなたのような方に運転してもらって、この車もさぞ喜んでいることでしょう」という言葉は、その車に乗ることがどのように得なのかをとても分かりやすく説明しています。考えてみれば、車が感謝するはずもないし、どんな車かもまるで分りませんが、この言葉に賛同する人が車を買えば、売り手と買い手の利害は完全に一致するはずです。新たな損得を定義し、相手の得を実現するために自分は何をすればいいのか・・・を考えることこそが、まさにビジネスの醍醐味だと思います。

 

A13_6.評価と報酬(when)

「評価と報酬」もまた、相手によって変わる関係を示す言葉ですが、相手が「だれか」とか「どんな人か」ではなく、相手に対し「どう対応するか」を示します。どう対応するかを決めるため、基準を作り採点することを「評価」と言い、それに応じて対応するやり方を「報酬」と言います。例えば、「罪と罰」とは、罪が評価で罰は報酬です。悪いことの基準をあらかじめ決めておき、それに該当したものを懲らしめるために罰を与えます。そこで問題になるのは、相手が何かを「やったのか」、「やっているのか」それとも「やろうとしているのか」の違いです。悪いことをすでにしてしまったのか、今まさにやっているのか、それともこれからやろうとしているのかの違いです。「殺人罪」とは「人を殺した罪」ですが、「過失致死罪」とは「死なせてしまった罪」です。両者の違いは「殺意の有無」ですが、「殺意」とは一体何でしょう。これを時間的に説明するなら、「殺人=殺したい未来+死なせた過去」で「過失致死=殺す気のない未来+死なせた過去」となる訳です。つまり、「評価と報酬」は「いつ(when)」に属する人間関係と言えます。

能動と受動でいえば、「評価と報酬」はそのどちらにも該当します。人間はいつも他者を能動的に評価していると同時に他者からの評価を気にします。時にはこの他者が、だれでもないすべての人や、神や天になったりもします。「報酬」もまた同様です。良いことが起きても、悪いことが起きても、それが何かの報いと感じるのは「受動の報酬」であり、これに対して何か対策を講じることが「能動の報酬」と言えるでしょう。こうして考えると、そもそも「報酬」という行動や出来事が、「評価」の対象になっているとも考えられます。他人は褒められると頑張りたくなり、頑張る人を褒めたくなるものです。だとすれば、褒められたければ頑張る、頑張って欲しければ褒めるというように、どちらの側からでもこの循環を生み出すことができるはずで、そのことを「積極的」と呼んでもいいのではないかと思います。

こうした「良い評価・良い報酬」に関する欲求に対し、満足を提供することがビジネスの方法です。先ほど述べたとおり、「評価と報酬」のやり方次第で、「積極と消極」が生まれてしまいます。そのもっとも顕著な例が給料です。給料とは労働の対価としての報酬ですが、やはり時間と密接に関係しています。給料は大別すると「給与・手当・賞与」の3種類に分類できますが、これらは見事に「未来・現在・過去」に対応しています。「給料」はその人の能力や経験などこれから行う未来の仕事への期待値で評価して支払われ、「手当」は通勤・住宅・残業・家族など現在発生している負担を評価して支払われ、そして「賞与」は過去の一定期間の成果や努力を評価して支払われます。人間は給料をもらえなければ働く気になれませんが、給料をもらえれば誰もが働くわけではありません。給料をもらいたいという労働者の欲求と、働いて欲しいという雇用者の欲求を同時に満たす積極的な循環を生み出すためには、互いが「評価と報酬」の誠実な関係作りに努める必要があると思います。

まつむら塾のガイダンスセミナーで、僕は必ず「信じる」について話をします。「相手の言うことを本当と思うこと」が「信じる」のやり方(how)なら、「信じる」のはなぜ(why)だろう・・・と。それは「自分の言うことを本当と思って欲しいから」というのが僕の好きな答えです。僕は相手に信じて(評価して)欲しいから、まず自分から相手を信じる(評価する)ようにしています。つまり、「報酬を得ること」とは「評価してもらうこと」ではないでしょうか。この気付きが、僕を積極的に突き動かしているのだと思います。

 

A13.ワークショップ ビジネスの人間関係

 

1.やりたいこと ()内はその目的

事業名:
1.    (    )
2.    (    )
3.    (    )

2.登場人物 あなたとあの人

名称 役割
1
2
3
4
5
6
7

3.人間関係

上下 距離 評価 報酬 利害 損得
1
2
3
4
5
6
7

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