独学のススメ

2月になるので、今年も「複式簿記入門講座」の準備をしていたら、僕は複式簿記を先生や教科書から学んだのでなく、ほとんど独学だったことを思い出した。

「ど素人セミナー」という副題には、「ど素人の人に教えたい」という意味だけでなく、「教える講師もど素人」という意味もある。

だが、講師の僕が「ど素人」とは、「ある物事に関してとても未熟で、未経験な人」を指す本来の「ど素人」であるはずがない。

それ、自分を「ど素人」と呼ぶのには、「かつてど素人だった」こと、そして「玄人から学んだことがない」の、二つの理由がある。

もしも正しいやり方があり、それを使いこなす人を玄人というのなら、僕は決して玄人でなく素人だ。

ご異論もあるとは思うが、今日はそんな前提で話を聞いて欲しい。

僕があえて「ど素人」という言葉を使うのは、それは「無垢(むく)」を意味するからだ。

人間の脳は、コンピュータと同じように、初めは無垢の状態でスタートする。

つまり、僕らは全員何をするにも、初めは「ど素人」の状態に違いない。

だが、何かを実行すれば、必ずそこから何かを感じ、次はどうしようと考えるのが僕たちだ。

このことを学びと言い、これを自分で繰り返すことを、僕は独学と定義する。

学びは疑問を生み出す行為であり、その答えを仮定し、行動することで判断や確認をしているわけだ。

だが、その行動の中には、探す答えやそのヒントを知っていそうな人に問う(質問)こともあるだろう。

それが「学問」というわけだ。

疑問を問う人に対し疑問に答える人がいる関係と似ているのが、答えを教える人に対し答えを習う(教わる)人がいる関係だ。

この関係で成り立っているのが学校で、教える人を教育者、教わる人を学習者と呼ぶ。

学びや学問と、教育や学習は、知識の流れが逆向きだ。

学ぶや問うは求める側が主体なのに対し、教育や学習は与える側が主体となる。

もちろん、学校に学問が無い訳ではないし、教育を求める人だって大勢いる。

だが、学問は求める人がいなければ成立しないし、学習は与える人がいなければ成り立たない。

こんなことを決めつけて、一体何の意味があるんだと、貴方は腹を立てるかも知れないが、のはこれからだ。

先ほど、学問は「求める人主体」で、学習は「与える人主体」と言ったが、その逆はさらに面白い。

僕は、学問に「与える人」は不必要で、学習に「求める人」は必要ないと確信する。

そもそも学問は「知らない答え」を求めているのであって、誰かが知っているわけではないし、ある程度の教育は「与えること」が求められているのであって、誰もが求めているわけではない。

つまり、自分が求める答えをすべて学校や書籍に求めても、見つかる保証などあるはずない。

本当に答えを探したいのなら、与えてもらおうなどと思わずに自分で探しに行くしかない。

僕はそのことを「独学」と考えている。

Wikiで調べると、面白いことが書いてある。

独学(どくがく、英語autodidacticism)とは、学ぶにあたって、先達者の指導を仰ぐことなく独力で目標をたてて習熟しようとする学習方法、能力開発の方法である。英語”self-taught” などとも言う。なお、ここで言う「学び」とは、学問が第一ではあるが、それに限らない。一般的には自習も同義語だが(中略)韓国では1990年4月7日に公布された「独学による学位取得に関する法律」により独学者が学位を得る制度ができ・・・云々。

さらに興味深いのが「著名な独学者」に関する記述。

世に広く知られる独学者を列挙する(生年順)・・・孔子、ソクラテス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ゴットフリート・ライプニッツ、ベンジャミン・フランクリン、ウィリアム・ブレイク、二宮尊徳、マイケル・ファラデー、ジョン・スチュアート・ミル、エイブラハム・リンカーン、ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク、ハーマン・メルヴィル、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、トーマス・エジソン・・・と続き、存命者としては安藤忠雄などが名を連ねている。

僕は教育や学習を否定するのでなく、独学・学問が欠かせないことを言いたい。

これは、就職を否定はしないがを勧める思いと同じだし、日本国の繁栄も必要だが身近な地域の自治独立がもっと大切なことにも通じると思う。

周囲と同じにならなければ生きていけないが、周囲と違わなければ生きている意味がない。

僕の「ど素人セミナー」は、正しい答えを教えるのでなく、誰でも知ってる答えにたどり着いた僕の経験談をお聞かせする。