願いの叶え方

願いを叶えるには、2つの方法があると思う。

1つは、願いが叶うように頑張ること、そしてもう一つは、自分にできることを願うこと。

つまり、願いのハードルが高ければ、それを超えるのは難しいが、ハードルが低ければすぐに実現できる。

だが、このハードルこそが曲者だ。

僕たちにとって、困難とは何のことだろう。

昨日僕は、録画しておいた映画「ガンジー」を見ているうちに、考えこんでしまった。

インド独立の父と呼ばれるガンジーは、「非暴力と不服従」で有名な指導者だ。

独立を目指すガンジーにとって、不服従が大切なのはよくわかる。

だが、不服従を貫くには権力の弾圧に耐えるだけでなく、権力に諦めさせなければならない。

そこでガンジーは、徹底的な非暴力の道を選び、殴られ殺されようと一切の抵抗をしないよう人々に説いた。

キリストの言う「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」を実践することにより、相手を悔い改めさせるというのだ。

ここで僕が注目したいのは、ガンジーの選んだ方法は誰でも出来ること。

何かをやるのでなく、やらないことなら誰でも出来る。

だが、ここで言う「やらない」とは、サボったり怠ることでなく「服従しない」ことだ。

一見やるよりやらない方が簡単に思えるが、服従はするよりしない方が難しい。

服従の対象は、権力や上司だけでなく周囲の人々すべてに及ぶ。

周囲の目を気にして孤立を避けるために、やりたくないことをやったり格好をつけたりしてしまう。

さらに質が悪いのは、自分自身の欲求だ。

孤立や苦痛を避ける自分の欲求を、自分の願いと勘違いをしてしまい、服従を正当化している自分に気付くこともある。

以前僕は、お世話になったM会長の下で、「借金の断わり係」を担当したことがある。

様々な事業に積極的に投資するM会長のところには、出資や投資の話が毎日のように持ち込まれるのだが、その大部分は借金の無心に過ぎない。

M会長から「松村君、相手の説明をよく聞いて、借金の話は感謝されるように断ってくれ」と指示を受け、戸惑いながら始めて見ると、すぐにその意味が分かってきた。

まず、何かを買うためにM会長に金を出させようとする話なら、それは投資の話なので、M会長につなげばいいが、誰かに金を返すためにM会長を頼ってくる人が僕の担当する「借金の話」となる。

そのことに気付いた僕は、「M会長から金を借りて今をしのいでも、今度M会長に返せなくなったらあなたは別の人に借りに行くのですか?」と聞くようになった。

すると相手は、困った顔をしながら「そういうことです」と答えるので、すかさず僕は「それではお金は貸しませんが、今返すべき人に一緒に謝りに行きますよ」と答えるようにした。

この場合の、やめるべきことは「新たな借金」だ。

そして、貸主から逃げることもやめて、返済できないことを報告・謝罪することは誰にでもできることだ。

確かにそこには痛みを伴うし、恥もかくことになるだろうが、逃げたり借金を繰り返す方が良いとは誰も思っていない。

ガンジーも不服従の結果、殴られ罵倒され、投獄された。

だが彼がすごいのは、民衆に対し同じことを求め、その結果死ぬことさえも否定しなかった。

正しいことは神様が決めることでなく、誰もが知っている「互いに良いこと」だと思う。

と、今日はいきなりガンジーの話をしてしまったが、実は来週のセミナーで「事業ノウハウの作り方」の話をするために、こんなことを考えてしまった。

とかく僕たちは、誰もが喜んで課題を解決してくれるような、魔法のようなノウハウを求めてしまうが、むしろそれは逆で間違いの様な気がする。

本当は誰もが解決できるはずなのに、何かがそれを邪魔している。

いや、むしろ僕ら自身が気付かぬうちに、課題を生み出しているのが現実だ。

だからこそ、課題を生み出している僕らの行為を見つけ出し、それをやめることが必要だ。

もしかすると、すでにみんなが答えを知っているのに、知らないふりをしたくなる何かをやめることかも知れない。

そして、戦争や喫煙など、やめること自体結構大変なことかも知れない。

でも、「勇気を出して何かをやめること」こそが、いつでも実行できる大事なノウハウだと思う。