格差の多様化

現代社会の問題点が「格差社会」と言われる一方で、現代社会が目指すのは「多様な社会」と言われている。

だがこれは、「格差」が悪く、「多様」が良いと言っているのではない。

例えば、個室や付き人が与えられる横綱と、無給で相部屋の幕下力士の格差を悪いと言う人はいないし、スーパーの商品棚に並ぶキュウリの大きさや味が多様な方が良いと言う人もいない。

また、「格差」という言葉の対義語は「多様」でなく「平等」、「多様」の対義語は「格差」でなく「均一」だ。

格差と多様は反対を意味するわけではないし、「格差と平等」や「多様と均一」の対義語たちも、それぞれが良と悪に対応しているわけではない。

つまり、「格差社会」の問題点を明確にしなければ、「多様な社会」を目指すことの是非は判らない。

そこでまず、「格差」と「多様」の違いを論ずるのでなく、共通点を考えよう。

それは、多くのモノや事が同じでない、異なる状況を意味している。

さらに言えば、その違いは変え難く、格差を解消したり多様を均質化するのは難しいことも共通する。

だとすれば、両者の違いは何だろう。

横綱との格差は、幕下から昇格することによって解消されるが、昇格を果たせるのはごく一部に限られる。

だが、体形や出身地などの多様性は、絶対に均一に出来ないが、誰も均一化を望んでいるわけでもない。

どうやら、両者の違いが見えてきた。

つまり、「格差」とは「難しいけど解消したい違い」であり、「多様」とは「難しいけど解消したくない違い」となる。

「願いが叶うかどうか」でなく、「願いがあるかどうか」ということは、願う人が多いかどうかと関係する。

富豪と貧民の格差を解消したいと思うのは、少数の富豪でなく、大多数の貧民だから社会問題となる。

だが、横綱より幕下力士の方が大多数なのに、彼らはこの格差に不満を唱えない。

富豪や横綱にとって、この格差は必要で、むしろこれこそが彼らのアイデンティティに他ならない。

だから幕下力士は、目指す横綱の待遇を下げようとは思わない。

だとすると、貧民もまた富豪の贅沢をやめさせようと思うより、いつか自分も富豪になって、あんな贅沢をしたいと願っているのかもしれない。

もしも貧富の格差解消よりも、富豪に成り上がることや平和な貧困生活を望む人が多ければ、それは多様な社会と呼べるのかもしれない。

たとえ格差をなくしても、格差社会を多様な社会に変えることはできないかもしれない。

なぜなら格差は人々が望み生み出すものだから、いくら解消してももぐらたたきのように新たな格差が生まれてくる。

かつての地主は封建社会を象徴する存在で、領地を所有することで支配する王や貴族の総称だった。

だが現在、ほとんどの土地所有者に地主の自覚は無く、まさに格差の象徴として社会から抹消されゆく存在だ。

だが、それで地域社会の格差は解消され、活気あるまちが生まれたか。

むしろ、所有者責任は放棄され、山林や耕作地はもちろんのこと、住まいや事業所の放置や放棄が進むばかりだ。

格差を解消するのでなく、多様化させるにはどうすればいいのだろう。

僕が取り組む「地主の学校」は、まさにそういうプロジェクトだとようやく気付いた。

すでに世界では、ほとんどの国で王や貴族は廃止され、格差の解消が進んでいる。

だが一方で、現代社会が推進する民主化とは、「民(私たち)」が「主(王)」になることだ。

「民を支配する王を消去する」のでなく、「民が多様な王となる」ことを、僕は目指したい。

本当は「王様の学校」で王様を育てたいところだが、誰も相手にしてくれないだろう。

だから僕は、誰でもなれる謙虚でつつましい王様として「」を学ぶことにした。

あなたやあなたの友達が土地や建物を持ってたら、是非地主になって欲しい。

そしてあなたならではの小さな国を作り、あなたらしい王様になって欲しい。