シェアは共同所有の第1歩

ひょんなご縁から、僕は今「(そうゆう)」というテーマの寄稿文を書いている。

ブリタニカ百科事典によると、「【総有】とは共同所有の一形態で,その財産の管理,処分権は総有団体 (ゲノッセンシャフト,実在的総合人など) に帰属し,個々の構成員にはその使用,収益権のみが与えられるもの。中世ゲルマンの村落共同体において典型的に発展した共同所有の形態であるが,日本でも前近代的な入会権などが総有の性質を有するものとされている。共有の場合とは異なり,各構成員は持分権がなく,また分割を請求できない。さらに,その権利は団体の構成員たる資格と切り離して処分することはできない。」とある。

なんだかわかりにくい説明だが、要は、僕が取り組む「日本土地資源協会」の活動が、そのままズバリ該当する。

自分の活動を説明する言葉に、僕はようやく出会えたようだ。

だが、上記の説明は使えない。

よく読んでみると、「共同所有の形態だが・・・共有の場合とは異なり・・・」と書いてあり、「共同所有≠共有」の意味不明。

そこでまず、共同所有について調べてみた。

共同所有とは、共有・総有・合有で構成される所有の在り方のこと。

共有は、数人がそれぞれ共同所有の割合としての持ち分をもって、1つの物を所有することで、各共有者はその持ち分につき処分の自由をもち、共有物につき持分に応じた分割請求の自由をもつ。

合有は、各共有者は、潜在的には持分をもつが、処分の自由、分割請求の自由は認められない(組合財産など)。

そして総有は、各共同所有者は目的物に対して利用・収益権を有するのみで、管理権は組織や法人がもち、持分請求権はない。

つまり共有とは、共同所有の中で最も持分が明確で分けやすい持ち方のことだった。

僕は以前から「共有≠シェア」を主張してきたが、この説明は明確に「共有=シェア」を示している。

恐らく共同所有と共有の使い分けは、どこかの法学者さんが考えた苦肉の策だろう。

「共同所有≠共有」なんて、日本語としてナンセンスだ。

たぶん「シェア(shere)」を訳すとき、共有にしてしまったのではないかと思う。

1つのものを分け合うことは、共有の一部であることは認めるが、共同所有の中において、これはむしろ「分けて持つ=分有」といった方が分かりやすい。

以前紹介した「権理(right)⇒権利」のように、当初の訳語の意味や表記が変化することはあるのだから、「共有(shere)⇒分有」に変化してもいいのではないだろうか。

今、シェアリングエコノミーやシェアハウスなど、シェアという言葉が多用されるようになるのを見て、僕はこの変化の必要性を痛感する。

個人主義がもたらした孤立や無駄を「共有」によって解消していくことには大賛成だが、シェアはその答えでなく、ほんの入り口に過ぎない。

つまり、固有(個人所有)から共有(共同所有)に移行する、分有という初めのステップであり、その先には、合有、そして総有という高度な共有が可能となる。

共有の価値は、所有者が不死身になり、後継者を生み出しながら永続所有を実現できること。

そもそも家族とは、人間が生き残るための共有システムだったと思う。

血縁家族が崩壊する今、土地を共同所有することで、新たな地縁家族を形成したい。

そして、それが集まることで、持続可能な地域社会を作りたい。