考える旅

11月10~12日の3日間、秋田―岩手の産業史を訪ねてきた。

主な訪問地は、

1日目 八橋油田

2日目 松尾鉱山

3日目 尾去沢鉱山、小坂鉱山、大潟村

もちろん温泉に宿泊し、紅葉を眺め、ご当地グルメの比内地鶏親子丼や盛岡じゃじゃ麺なども満喫したが、これら産業遺産と言われる場所の面白さは格別だった。

産業遺産には、それぞれの輝かしい過去と寂しい現在がある。

現在を生きる僕らの関心事とは、もちろん寂しい現在からいかにして明るい未来を描くこと。

だが、その明るい未来が「さらに寂しい未来をもたらす一時的な」だとしたら・・・僕にそんなことを教えてくれた産業遺産を、簡単に紹介しよう。

八橋油田(やばせゆでん)は、秋田市に現存する数少ない現役の油田で、国際石油開発帝石株式会社の敷地内にある。

ちょうど日曜日で会社には誰もいないようなので、僕は車で構内に入らせていただいた(すみません)。

周囲を住宅街やホームセンターに囲まれた場所で、石油を汲み上げるための小さなポンピングユニットが動いている様子は、健気で感動的だ。

今でこそ日本はエネルギー輸入国だが、昔は新潟県・山形県・秋田県・北海道の各地に点在していたという。

現在でも、各地で試掘は続けられているようだが、この試掘の副産物が温泉だ。

つまり、油田の探査が結果的に温泉開発につながり、東北北海道の温泉事業を生み出したらしい。

「温泉を掘り当てる」という行為が、石油や天然ガスの試掘によって生み出された。

松尾鉱山(まつおこうざん)は、19世紀末から岩手県岩手郡松尾村(現在の八幡平市)に存在した鉱山で、主に硫黄や黄鉄鉱を産出し、一時は東洋一の硫黄鉱山であった。

その後1969年にし、会社更生法の適用もむなしく1972年には完全に閉山した。

紅葉の名所「八幡平アスピーテライン」をドライブしながら、初めに資料館を訪ねたが、月曜日閉館だったのでそのまま現地に向かった。

最盛期の1960年には人口が1万3594人に達し、労働者と家族のための福利厚生施設の充実が図られた。

公団住宅が一般化する前から、水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や小・中学校、病院、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成され、「雲上の楽園」とも呼ばれたという。

閉山後、木造の建物は延焼実験目的で焼却され、現在見ることができるのは鉄筋コンクリートの建物の廃墟だけだ。

また、廃坑から流出する排水(鉱毒水)はヒ素を含むpH2前後の強酸性となっており、また、毎分17~24トンと多量なため、中和施設が建設され、今でも5億円を超える維持費がかかっている。

尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)とは、秋田県鹿角市にあった鉱山で、銅や金が採掘された。

1978年(昭和53年)に閉山し、跡地はテーマパーク・史跡 尾去沢鉱山として営業しており、僕は母を車いすに乗せて坑道内を1kmほど散策した。

鉱山周辺は労働者や家族のための町になったが、僕が驚いたのは、ふもとの駅がある花輪の町だった。

そもそも岩手県の好摩駅から秋田県の大館駅を結ぶこの路線は、この鉱山で栄えた花輪町を通るから「JR花輪線」と名付けられたという。

鉱山の次に訪ねた「旧関善酒店主屋(国登録重要有形文化財)」では、繁栄当時の鉱山関係者たちの様子を聞くことができた。

この建物は、桁行14間(約24.8m)、梁間11間(約21m)の大規模な平入町家で、極めて上質な近代和風建築であり、特に吹き抜けの通り土間上部の架構は東北最大級の規模だ。

このような繁栄をもたらしたのもまた、尾去沢鉱山であったことを忘れてはならない。

小坂鉱山(こさかこうざん)は、秋田県鹿角郡小坂町にあった鉱山で、1861年に金、銀の鉱山として開発が始まり、1901年には銀の生産高が日本一となった。

やがて製錬技術が向上すると黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となり、労働者を集めるために、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラストラクチャー整備が進められた。

元々、精錬施設の一部で亜鉛精錬の残渣をリサイクルしていたが、現在金(年間6トン)、銀(年間400トン)、銅のほかレアメタルを含む20種類以上の金属を再生利用している。

明治中期に竣工した小坂鉱山事務所、芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)は、現在町が管理、公開していて、訪問時にはまさに興行中で地元の人や観光客で盛り上がっていた。

最 期に訪ねた大潟村(おおがたむら)は、日本で2番目の面積を誇る湖沼であった八郎潟を干拓して造った土地で、戦後20年をかけて1964年に完成した日本最大の干拓地だ。

ところが、1970年からの減反政策により国は大潟村にも米作りから畑作への転換を迫った。

大潟村は干拓後間もない地域で水はけが悪い土地で、水田に適し畑作に向かない土地だった。

全財産を処分することを条件に入植した農民の中には、経済苦から自殺者も多数出現するなど、日本の減反政策の犠牲になったモデル地区であり続けている。

だが一方で、日本海に飛び出た男鹿半島に隣接する広大な土地は渡り鳥たちの天国になりつつある。

北海道にも負けない長くまっすぐな道を走りながら、飛んでいく大小様々な渡り鳥たちの群れを楽しむことができた。

八幡平のアスピーテラインは松尾鉱山、十和田樹海ラインや旧小坂鉄道は小坂鉱山、そして、JR花輪線は尾去沢鉱山のために作られた。

僕たちが今使っている道路や鉄道、温泉や観光地は、観光のために作られたものではなく、過去における産業の創出や繁栄が生み出した残骸や副産物を、活用しているにすぎないことに、今回の旅であらためて気づくことができた。

そしてまた、松尾鉱山などその後始末を後世に残してしまう事例もあった。

僕たちが、地域で生み出していることが、将来どうなっていくのか。

思わぬ価値を生み出すのか、それとも迷惑や後悔を残していくのか。

そんなことを考えさせられる旅だった。

でも僕は、これからもそんな旅がしたい。

考えさせてくれるから、僕は旅が好きだ。