目的は終わりじゃない

マレーシアのボルネオ島に暮らすオランウータンは、群れを作らず単独で暮らす動物だ。

熱帯雨林は、一見豊かな自然に恵まれていると思われがちだが、そこで暮らす大型動物にとっては実りの少ない厳しい環境だという。

そこで彼らは縄張りを作って守るよりも、より広範囲で単独行動することで、少ない食料を分け合う生き方を選択したらしい。

ところが、ボルネオ島の熱帯雨林では、数年に一度森じゅうの木々が一斉に開花し結実する「一斉結実」と呼ばれる極めて珍しい時期を迎える。

豊かな実りのおかげで彼らの活動が活発になり、めったにみせない集団行動や、子どもの独立、若いオスとメスの恋の駆け引きなどが繰り広げられる。

やがて実りの季節が終わると、彼らは単独行動に戻り、新たな子育てや独り立ちの修行の旅に出かけることになる。(今朝のNHK「ワイルドライフ」を見て)

この番組を見て一番驚いたことは、1匹ずつ生まれるオランウータンの子の死亡率が数%にすぎないこと。

これは、人間の先進諸国並みの生存率だ。

約7年間の子育てを経て子は独立し、母親は生涯で数回出産すると、出生率は4~5となり、人口維持に必要な2.1にはるかに届かない人類の方がよほど絶滅の危機にさらされている。

もちろんオランウータンが世界を支配するとは考えられないが、熱帯雨林が存続すれば、その樹木の上の方で木の実や皮だけを食べて生き続ける力を持っている。

そのオランウータンが、「縄張り」を持っていないという。

僕が今、永続所有に取り組んでいる「土地」とは、まさに縄張りのこと。

確かにオランウータン同士が奪い合う縄張りを持たないかもしれないが、世界を支配する人間から見れば熱帯雨林そのものが彼らの縄張りだ。

僕たちが自分らしく生きるためには、その生活の場としての縄張りは、やはり不可欠だと思う。

オランウータンが縄張り意識を持たないのは、争いを避けるためとも考えられる。

もちろんそれは、平和を求めているのでなく、縄張りが奪い合うほどの価値を持たなかったせいだろう。

人間の社会でも、人々が争って奪い合ったのは、豊かな土地や便利な場所だ。

何もない砂漠の中には、いまだに明確な国境線はない。

世界には様々な場所があるからこそ、それを縄張りにする所有や領有をかけて争いが繰り返されてきた。

戦争を「善」という人は一人もいないが、軍隊を「悪」と決めているのは日本だけ。

常備軍を廃止したコスタリカでさえ、有事には徴兵制が施行される。

パクチーハウスで有名人になった佐谷君は、かつて平和学を学ぶために英国に留学した。

だが、そこで多数を占めるのは軍隊や産業など「ネガティブピース」を掲げる人たちで、戦争や貧困を無くすことを「平和」と定義し自らを正当化しているという。

一方で、佐谷君が標榜する「旅と平和」は誰もが互いに訪ねあう「ポジティブピース」と呼ばれる少数派で、論文の指導すらしてもらえなかったと愚痴ってた。

「目的のために手段を択ばない」と言うが、本当にそうだろうか。

この言葉をGoogle翻訳で訳すと「Choose the means for the purpose(目的の手段を選択してください)」となる。

ここで言う「選ばない」とは、「何でも良い」ではなく「制約なしに真剣に選ぶ」という意味ではないだろうか。

そもそも「目的を実現するための手段は、決して一つではない」が間違いではないか。

手段がもたらす結果もまた、成功や失敗など一つでないとすれば、目的など方便として利用されるだけだ。

なるほど、僕は今、自分の間違いに気が付いた。

目的を実現する手段は、たった一つしか無いことに!

そこで僕は、目的を実現する手段を「方法をやり続けること」に変更する。

軍隊が平和を守るために戦争するなら、平和とは「戦争し続けること」になってしまう。

目的とは、一時的な状態を言うのでなく、いつまでも続く状態を指すはずだ。

オランウータンが生き続けるために必要なのがボルネオの熱帯雨林なら、僕たちが生き続けるのに必要なことは何なのか?

今現在、自分がやっていることを続けていけばそれで良いのか?

自分が目指す未来に向け、すでに長い道のりを歩いてきたという気づきを、今日は書き留めた。