自然経済とは

貨幣経済となる以前の状態を「自然経済」というらしい。

その後経済は自然経済から貨幣経済へと、そして現在進みつつあるキャッシュレス化は、貨幣経済から信用経済への発展と言われている。

確かに、物々交換から貨幣による売買に変化することで、経済活動は一気に広域化し、キャッシュレス化によってさらに高速化や巨大化が実現している。

だが、これを捉えて「経済の進歩」と呼ぶのは、経済の技術的進歩に過ぎないことを忘れてはならない。

貨幣経済が破たんとは、自然経済への回帰なのか、信用経済への移行なのか、それらの変化が、僕たちにどのような影響を与えるのかを、少しは考えた方が良いと僕は思う。

そもそも自然経済とは、人間同士のやり取りのこと。

そこに人間が介在しなければ、自然はすべてをタダで与えてくれる。

だが、すべてを自分で調達して生きていくのは大変なことだ。

野生の動物だけでなく、虫や植物だって、互いを利用し合いながら生きている。

人間は感じ・考えることで進化のスピードを超越し、互いに助け合うことで自然界の頂点に立つようになった。

なぜなら、この助け合いこそが、本能的な相互利用を超えた「損得勘定に基づく行為」であり、それが自然経済を生んだのだと思う。

自然経済の基本は、貨幣を介さない物々交換だ。

海の幸と山の幸を交換したり、労働と食物を交換したり、互いのニーズを満たすことで交換は成立する。

したがって、自分が何かを生み出さない限り、交換できない。

自然経済における需要と供給とは、誰もが消費者かつ生産者であることが求められた。

「働かざるもの食うべからず」とは、まさにこのことだ。

生産しない者は、交換できないので、消費もできないことになる。

江戸時代まで、経済の基本となった年貢米は、まさに農民の労働によって生み出されたものだ。

つまり、自然経済の時代には、誰もが自分でお金を生み出していたことになる。

ところが、明治時代になると年貢は廃止され、貨幣で納税することになった。

貨幣は自分で作ることができないので、何かを売って手に入れる必要がある。

ところが、初めは誰も貨幣を持っていないので、貨幣の製造元に行かなければならない。

だが、貨幣の製造元は何でも買ってくれるわけではない。

そこで貨幣は、製造元から借りることで調達することになる。

これが自然経済から貨幣経済への移行プロセスだ。

実は現在に至るまでこれは続いており、日本銀行が印刷した紙幣を銀行に貸し出して、それを銀行が個人や企業に貸し出している。

日銀にモノを売って得た代金として貨幣を手に入れた人など、だれ一人として存在しない。

貨幣経済では、物々交換でなく貨幣とモノを交換できるようになる。

つまり、何も生み出さなくてもお金があれば物を買うことができるわけだ。

さらに、物を買うということは、誰かに何かを頼むこと。

つまり、お金があれば、何かをせずに済むということだ。

お金の価値はまさにこのことだ。

けがや病気だけでなく、年を取ったり失敗したり、働けなくなる理由は幾らでもある。

その逆に、お金を払うことで他の人が働いてくれるのなら、自分で作る何倍も何百倍も作ることができる。

こうして貨幣経済は、チャンスを広げリスクに備え、夢をかなえる手段となった。

だが同時に、「何かをせずに済む」という貨幣の価値が、人間を退化させている。

確かに値段の高いモノやサービスは、到底自分の力で出来ない贅沢を叶えてくれる。

でも、自分でやらずに済ませることが贅沢ならば、何もできない人が最高の贅沢者ということだ。

もちろんお金があれば空も飛べるし、月にだって行けるようだ。

だが、お金が無ければ生きていけない人が増えている。

かつて、お金が無くてもみんなが生きていた自然経済の社会と現代とでは、一体どちらが豊かなのだろう。

台風15号の影響で、停電が続く地域の様子を見て、今僕たちは「電気が無ければ生きていけない」ことに気付き始めている。

もしかすると、自然経済とは「●●が無くても生きていける」という豊かさを求めていたのではないだろうか。