国語と日本語 の違い

昨日は久しぶりに会ったIさんと夕食を食べながら、言葉談議に盛り上がった。

Iさんは今、外国人に日本語を教える日本語教師として活動中。

彼女によれば、英語をしゃべる人のうちネイティブは15%程度で、あとの人はコミュニケーションのための英語を使うという。

「だから、日本語教師とはコミュニケーションのための日本語を教える仕事なんです。」という彼女の説明に僕は納得した。

確かに僕たちは「国語」を勉強したものの、「日本語」を勉強した記憶はない。

でも、考えてみれば「外国語」とは「国語」の反対を表す言葉だ。

Wikiで調べると「国語(こくご、英: National language、仏: Langue nationale)は、その国家を代表する言語で、公の性格をになう言語のことを指す。「国家語」ともいい、国民にとって共通の言語というべき性質をもち、国民国家形成の必須条件である。「外国語」と対をなす言葉であると一般に認識されている。あるいは国際的な「公用語」とも対となる言葉でもあるとされる。」とある。

「国内という限定された中での公用語」とは、まさに「井の中の蛙」のようだ。

僕は日本語しかしゃべれないが、近ごろインターナショナルスクールを作るため外国人としみじみ議論する。

たとえば、USTのN校長はロシア人で、そのご主人のMさんはイギリス人建築家だが、日本で結婚した二人の間には、二人の子どもがいる。

彼らは少なくとも日本語と英語とロシア語を生まれた時から使っているトリリンガルだが、頭の中はどうなってるのかと聞いてみた。

すると、頭の中には常に3つの言葉がすべてあり、全部を使って考えるが、会話をするときは相手に合わせて言葉を選ぶという。

確かに僕らだって同じこと。

頭の中で考えることを人に話すときには、年齢、性格、役割など、相手に合わせて言葉を選んでいる。

関西育ちの人が標準語と関西弁を使い分けるのと似ているのかもしれない。

僕はふと、以前NHKのテレビで見た高田屋嘉兵衛のことを思い出した。

高田屋嘉兵衛とは江戸時代後期の人物で、淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出し、国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献した人物だ。

そして、ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いたことで有名だ。

嘉兵衛たちはペトロパブロフスクにある役所を改造した宿舎に収監されるが、そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだという。

そしてわずか4か月後に、嘉兵衛はロシア当局との交渉を開始し、釈放されるばかりでなく、幕府とロシアを仲介して事件解決を果たしてしまう。(詳しくは、wikiを参照してください)

いくら嘉兵衛が優秀だからと言って、4ヵ月子どもに教わっただけでロシア語を話せるようになるとは、一体どういうことなのか。

それは嘉兵衛の経歴にヒントがある。

彼は淡路島で生まれ兵庫にわたり、北前船に乗って各地で商売し、当時は外国同然だった北海道のアイヌとも交易し、函館を繁栄させた。

当時日本には標準語など存在せず、地方ごとに外国語のような方言を使っていたことを合わせて考えれば、彼はおそらく十数か国の言葉を操っていたと思われる。

その嘉兵衛にとって、4ヵ月も集中してロシア語を学んだことはかなりの猛勉強だったはず。

でも、古くは遣唐使として中国に行き、種子島でポルトガル人から鉄砲を買い、宣教師がキリスト教を布教し、朝鮮出兵で戦うなど、いくら何でも言葉なしでは成しえないことばかり。

語学学校はもちろんのこと、ろくな教科書や辞書さえない時代に世界と関わることができたのは、外国の言葉を学び理解する能力が「もともとあった」としか考えられない。

だとすれば、その能力を失う原因は「国語」にあるのかもしれない。

特に危険なのが、外国語を国語に「翻訳」することだ。

なぜなら「翻訳」とは、頭の中から外国語を排除して、国語で埋め尽くす作業のことだから。

「青=ブルー」という安易な翻訳では、「青々とした新緑」など成り立たないし、そもそも「1+1=2」とは「1+1が2と同じ」という意味ではない。

つまり、「すべての言葉は意味が違う」はずであり、同じことを意味したいなら同じ言葉を使えと言いたい。

さらに言えば、「おおきに=ありがとう」ではないし、関西弁を標準語に翻訳することなど無意味だと僕は思う。

以前、映画字幕の翻訳家である戸田奈津子さんが「外国語の方言の違いはまるで翻訳できない」と言っていたが、この言葉から「翻訳では現実を直視できない」と僕は感じた。

だとしたら、どうすればいいのか。

僕は「国語」という発想をやめ、むしろ「自分語」と考えたい。

それは、自分が育った環境や学んだことから作られた言葉の世界のこと。

僕の自分語は、大部分が日本語だが、たくさんの外国語も含んでいる。

そしてこれらを伝える相手に合わせて使い分けているに過ぎないと思う。

外国語を学ぶことが、「その国の言葉だけを使って世界を説明できるようになること」だとしたら、僕はあまり興味がない。

Iさんの言うとおり、「その国の人とコミュニケーションできるようになること」だとしたら、確かに大切なことだと思う。

でもそれは、外国人の前に身近な他人から始める必要があるかもしれない。

さらに言えば、「自分が何を言いたいのか」を自分に説明できなければ話にならない、、かな。