ノートルダム再建と永続

A firefighter uses a hose to douse flames and smoke billowing from the roof at Notre-Dame Cathedral in Paris on April 15, 2019. - A fire broke out at the landmark Notre-Dame Cathedral in central Paris, potentially involving renovation works being carried out at the site, the fire service said.Images posted on social media showed flames and huge clouds of smoke billowing above the roof of the gothic cathedral, the most visited historic monument in Europe. (Photo by GEOFFROY VAN DER HASSELT / AFP) (Photo credit should read GEOFFROY VAN DER HASSELT/AFP/Getty Images)

ノートルダムが焼けた。

それも、よりによって巨大な炎と共に盛大に焼け落ちた。

日本で言えば平安時代の昔に、200年近くの歳月を費やして建てられたこの建物は、当時世界最大のカトリック教会と言われたという。

僕もパリにはご縁があって3回訪れたことがあるが、もちろん3回ともここを訪れている。

出火当時、ノートルダムでは修復工事が行われていたため、出火原因との関係が取りざたされている。

だが、原因や責任の追及などは二の次で、世界の関心はその再建に向けられて、すでに1000億以上の寄付が盛大に報じられている。

テレビに映し出されるパリの市民たちも、深い嘆きと悲しみを訴えながらも、その再建に向けての団結を呼び掛けているように思える。

そこで、フランスのマクロン大統領は、いち早くノートルダムの再建を宣言たが、2024年のパリ五輪に合わせたような「5年以内」というなどという期限まで必要なのだろうか。

就任当初60%以上を誇ったマクロン大統領の支持率はその後30%以下にまで下落したままで推移しているという。

今回の再建宣言は、明らかに支持率稼ぎのスタンドプレイと言われても仕方のないことだ。

また、いくら工業技術が進化したからと言って、200年かけて建築したノートルダムを5年で再建できるはずも無いし、そもそも慌てて再建する必要すらあるとは思えない。

それに対し、いきなり多額の寄付を申し出る人たちもまた、スタンドプレイではないかと言いたくなる。

だがまてよ、なぜ僕は他人の行為を「スタンドプレイ」などと批判しているのだろう。

スタンドプレイとは一体何か、それがなぜ悪いのかを、きちんと説明したくなった。

スタンドプレイとは、野球、バスケットボールなどの団体競技で、チームの勝利よりも個人が自身の成績を優先したり目立つことを目的にしたプレイ。

グランドスタンド(あるいはスタンド)とは観客席のことで、主にプロフェッショナルの選手が観衆を喜ばすために行った派手なプレイを意味した。

現在では、選手のプレイに限られず、動作や作業の本来の目的よりもそれを観ている聴衆や民衆、上役等にアピールする事を目的とした行為全般に使用される。

また、聴衆を喜ばせたり、民意を良い方向に誘導するなど敢えて行う場合もあるが、どちらかというと、人気取りやごまかし、繕いを目的としている場合に使用されることが多い。(wiki)

この説明を読むと、僕はけしからんというよりはむしろ当然だと納得した。

もしも興行収入を高めることがプロフェッショナルの仕事なら、観客を喜ばすことの方が本業だ。

プロレスはその迫力や面白さが魅力であり、不自然な勝敗を八百長と攻め立てる人など見当たらない。

では、いったいなぜノートルダム再建に関わるスタンドプレイに違和感を感じるのかと自問したら、それは自分に対する疑念ではないかと思えてきた。

つまり、もしも自分が観客なら、スタンドプレイを楽しめばいい。

スタンドプレイを見て不快に感じるとしたら、それは自分が観客でない証なのではないか。

確かに僕は、ノートルダムを3回訪れたが、それは建築を見るためでも記念写真を撮るためでもなく、その時間的な重みのようなものを感じたいからだった。

200年もかけて建設したモノが、その後700年の間人々から愛され続け、今もなお世界中の人々を魅了し続けているその事実を、そこに身を置くことで実感することが訪問の目的だ。

もちろんそれが焼け落ちたことは、悲しいことに違いない。

だが、木造建築には火災はつきものだし、その寿命だって永遠ではない。

現にノートルダム寺院は改修工事中だった訳であり、修理することは当然のことだ。

もしも今回すべてが焼失したとしても、また再建すればいい。

むしろ、金の力で突貫工事することなど、僕は望んでいない。

そんなことを思いながらテレビを見ていたら、僕はパリのまちに思いを馳せていた。

確かにノートルダムは、特筆すべき建築だが、パリのまちは長い歴史を持つ古い名建築にあふれている。

いや、パリに限らずヨーロッパ諸国の都市は、どこも歴史の中で人々は暮らしている。

いやまてよ、それはアジアやアフリカ、アメリカだって、古い街並みの中に暮らす人々は大勢いる。

いやいやいや、だったら日本だって、僕たちが拠り所としている場所や建物は、決して資本と技術力が作り上げた最新の建築でなく、昔から守られてきた歴史や文化ではないだろうか。

いまにして思えば、昔の名建築は途方も無い知恵と技術と時間を費やして作られており、それに比べれば現代建築は新しさだけが取り柄の稚拙なモノだ。

稚拙とは歴史の無いことであり、時が経てば文化となる。

法隆寺の屋根はつっかえ棒に支えられた日本一稚拙な屋根だが、世界一古いという最高の価値を持つ。

そして、その年月は、一つの幕府や政府の力でなく、そこで営まれる事業によって支えられ、継承されなければ重ねることはできなかっただろう。

ノートルダムとて同じこと、つまり大切なのは慌てて再建することでなく、今回の消失を乗り越えて永遠の存続を目指すこと。

そのためにどうすべきかを、ノートルダム寺院の経営者たちは今必死で考えていると思う。

だから僕も、自分が関わるプロジェクトがするためにどうすればいいのかを、これからも考えていきたいと思う。