僕のやりたいこと

「地域活性化」とか、「地方創生」など、地域社会の衰退を食い止めるために様々な施策が実施されるが、成功したという話はほとんど聞かない。

だが、考えてみると、地域社会の成功とは何なのか。

実は、あまり意味のない議論をしているのかもしれない。

なぜなら、地域社会が目指すのは、決して一時の成功ではなく、いつまでも滅びずに存続すること。

たとえ栄枯盛衰があろうとも、消滅することだけは避けなければならない。

ところが、「成長無くして・・・」という安倍政権の口癖が象徴するように、今の政府はまるで上場企業のように「成長という成功」を目指している。

僕から見れば、日本政府はすでに「社会から会社」へと、変わり果てている。

かつて明治維新の頃、新政府を立ち上げた人たちは西欧諸国に新たな脅威を強く感じ、例えサル真似でも近代化を推し進めたのは、国家存続のためだった。

その後の帝国主義の暴走も、無条件降伏の決断も、結局は国家の存続のためだった。

そして戦後の奇跡的な復興と経済成長も、戦争を放棄し平和を謳歌することによる国家の存続を目指したのだと思う。

だが、バブル経済が崩壊し、人口減少の時代が始まってからは少し様子がおかしい。

存続を守ることは、西欧からの侵略や、自滅への暴走、戦争時代への回帰など、滅亡の危機を想定し、それを防ぐことだ。

この期に及んで「成長を前提」などと言う政府こそが、今の日本の最大のリスクだ。

そこで僕は、改めて「地域社会の存続」を提唱したい。

たとえ活力が無くても、人口が減っても、その地域を必要とする人がいる限り、地域社会のやりたいこと存続を目指すべきだ。

だが、その担い手は行政ではなく、地域を必要とする市民自身だ。

行政組織は、ある程度の地域経済と住民が存在しなければ維持することのできない企業体だ。

もともと明治中期まで日本には7万を超える集落があって、すべてが自給自足していたのに、そこに地方自治体を設置するために町村合併を繰り返してきた。

現代の1,700余りの自治体に集約した「平成の大合併」は、当初自治体数1,000を目指していたという。

つまり、行政はこれまで、7万近くの地域社会を消滅させてきたと言える。

僕の暮らす世田谷は、すでに人口90万を超えたのにまだ特別区のままで、隣の狛江市は人口8万人だがすでに50年前に市となっている。

さらに言えば、世界には国連加盟国の中でも狛江市より人口の少ない国が10もある。

ドミニカ国67,757人、マーシャル諸島54,038人、セントクリストファー・ネイビス52,402人、リヒテンシュタイン36,032人、モナコ35,407人、サンマリノ31,358人、パラオ20,457人、ナウル10,210人、ツバル9,929人、バチカン458人。

決して豊かでも賑やかでもない国もあるが、14億人の中国と同じ1票を持つ独立国だ。

ちなみに、僕の働く世田谷区砧町は人口26,000人だから、ここだけでパラオやナウルより大勢いる。

独立して国連に加盟するのは面倒だが、自分たちの意志で地域を治めるには十分すぎる人数だ。

問題は、「このまちの何をいつまでも残したいのか?」ということだ。

僕の運営する笑恵館は、オーナー自ら「この笑恵館をいつまでも残したい」と宣言したことから始まった。

つまり、地域社会を必要とする人は自ら必要とされる存在になるべきだし、地域の存続を願う人は自ら永続する存在を目指すしかない。

そして、賛同する人たちがそれを支え、共に継承してこそ地域社会が存続するのであり、それ以外の人は別の地域社会を生み出すか、やがていなくなるだけのこと。

「地域社会の排他性」を耳にするが、その人たちは独自に継承を続けない限り滅びるだけのこと。

そして、町村合併も単なる行政機関のリストラに過ぎず、地域社会は行政区画と関係ない。

地方自治とは、市民が国の中で永続的に自立し、緩やかに独立することだと僕は思う。

国政選挙において、1票の格差が問題視されているが、中国とツバルでは14万倍の格差がある。

地域社会は広さや人数の問題でなく、自立し存続しているかだけの問題だ。

繰り返しになるが、「何を残したいのか」、「何を防ぐのか」そして「何を目指すのか」を決め、賛同し協力する人たちを国民とする国づくり。

それこそが、僕のやりたいことだ。