天皇家の政教分離

「大嘗祭(だいじょうさい)の費用を公費(税金)で賄うのはいかなるものか」という秋篠宮の発言が物議をかもしている。

大嘗祭とは、天皇即位の後に行われる新嘗祭(にいなめさい)のこと。

毎年11月23日に執り行われる新嘗祭という神事は、秋の収穫を感謝する天皇家の大切な行事で、それを記念して「勤労感謝の日」が制定されている。

かつて王であった天皇の存在は神でもあり、全国の神主の親玉と言っていい。

極端に言えば、神社は天皇の神を祀る信仰でもあると言える。

その天皇家の主要人物が、「政教分離に反するから、大嘗祭は天皇家の私費でやるべき」と発言するのは至極もっともな話であり、僕は共感する。

現在の天皇は、「象徴天皇」という言葉をよく使うが、これは「君臨すれども統治せず」という英国王室とは少し違う意味を感じる。

ここで言う「象徴」とは、まさに信仰の対象としての「神」であり、君臨する「王」ではない。

かつて日本の統治者たちが、決して天皇家を滅ぼそうとせず、天皇を守ることで権力を得たことを見ても、よく判る。

諸外国の王室がキリスト教、仏教、イスラム教などの宗教を持つのに対し、日本は天皇家自体を神に近い存在として位置づけてきた。

そう考えると、第二次世界大戦後の「人間宣言」は「支配者から平民」ではなく、「神から神官」ということだった訳だ。

一方で、戦前まで「天皇という神の部下」として権力をふるってきた日本政府にとって、「政教分離」が持つ意味も諸外国と異なるはずだ。

ケネディ大統領がカトリックであったため、それまでプロテスタントを国教としてきたアメリカが政教分離を宣言したように、政教分離とは国民の信仰の自由を守ることが目的だ。

だが日本では、それ以前に「神(天皇)を担いだをやめる」ことが重要であり、公明党と創価学会の関係を取り締まるのは二の次だ。

今回の秋篠宮発言に対し、政府が無視する態度を見て僕が感じる不快感は、天皇家を支配下に置こうとする過去の権力者と同じだからだ。

天皇家の人たちの発言は「私たちはすでに人間であり、神官の親玉に過ぎない」と僕には聞こえる。

、天皇家の方から「政教分離」という言葉が出てくることは、素晴らしいことだと思う。

そこで肝心なことは、を担うべき僕たち国民の意識と態度だ。

天皇が「人間宣言」をしたのは、僕たち国民に対する「私たちは神なんかじゃない」というメッセージだ。

それは、「神を担ぐ権力者を信じるな」であり、「神を敬うすべての国民こそが権力者だ」と僕には聞こえる。

だから、天皇家の人たちは戦没者を追悼し、被災者を見舞い続ける。

天皇と皇后はいつも揃ってひざまずき、被災者の手を取って励ます心優しい老夫婦だ。

その優しいお爺さんが、総理大臣を任命するのは、僕らを代表してやることだ。

だから、「日本の王は僕たち自身」ということを忘れてはならない。

素敵なリーダーや代表でなく、部下や代理を選んで仕事をさせる側にならなければならない。

天皇家の意見は、そんな風に僕に聞こえる。