家族を作る

少子高齢化は単なる現象に過ぎず、その原因は家族という仕組みの問題だ。

現代社会の家族が子育ての負担に耐えられずに、少子高齢化を進める仕組みになっている。

その結果、社会保障の負担が増えて困るので、子育て支援に取り組むという理屈だが、話はそう単純ではない。それ、介護や子育ての人手不足を外国人で補充するなど、安易な発想に呆れるばかり。

明治維新以後の日本では、確実に家族の解体が進んでいる。

かつて家族の財産は、家督として長男が継承し、その他の家族は使用人と共に大家族を形成していた。

戦後の法定相続により財産は相続として個人に配分されることになり、家族は少人数世帯へと分裂した。

1980年代にはすでに人口増加は終わっていたというのに、世帯数の増加が続くことで住宅の増加が支えられた。

少子高齢化とは、あくまで過去との比較であり、好景気を支えた団塊世代の高齢化を指しているに過ぎない。

家族が助け合っていた作業をすべて外注しているのだから、経済効果は絶大だ。

先日テレビのニュースで、認知症の高齢者500万人の金融資産が143兆円と言っていたが、一人当たり2860万円となるから驚きだ。

何はともあれ、現在の日本にはたっぷりお金があるので、こんな政策が通用するのだろう。

だが、問題の本質は僕たち自身の側にある。

僕たちは一体どんな未来を願っているのか。

乱暴に言えば、他人に依存するかお金に依存するかのどちらを目指すのか。

ここで言う他人とは、自分以外の人のこと。

他人に依存するということは、相手から自分も依存されるお互い様の取引だ。

それに対し、お金に依存するということは、お金を払って他人に何かをしてもらうこと。

お金を払えば自分は何もしなくていいことになる。

つまり、相手に何かしてもらうために、自分が何かの役に立つか、お金で済ませるかの違いだ。

もちろんお金で済ませた方が、何もしないで楽になる。

だが、楽をして何もしないために僕たちは生きているのだろうか。

現代社会は、明らかにすべてを金銭依存にしていく傾向にあると思うが、そんなの僕はいやだ。

親が子供を育てるのは、やがて助けてもらうため。

そもそも家族はそのために出来た仕組みだと僕は思う。

助け合うための仕組みなら、会社も社会も同じこと。

だから家族は、血縁関係に関わらず、自由に作ればいいと思う。

会員制、会社型、そしてご近所同士の家族など、僕はいろんな仕組みに挑んでみたい。