別れのつぶやき

今朝、叔父が亡くなった。この叔父は母の兄であると同時に父の親友で、父と二人で興した会社を結局僕が引きついで潰してしまったが、もう一人の父のような存在だった。今日は冥福を祈り、少しだけ思い出話を書こうと思う。

 

僕が父の会社に入ったのは、共同経営者の叔父が辞めるのがきっかけだった。現場や顧客を訪ねて駆けずり回っていた父とは違い、設計畑の叔父は大口顧客の対応や不動産がらみの案件を担当していた。僕が28歳で入社した日、会社の片隅に見積用の図面に赤字で「辞退」と書いてあるので、それを広げてみると「高崎正治・物人研究所」と書いてあり、設計の内容もとんでもない。これはとても見積もれる内容ではないと思った僕は、「どうせ辞退なら、僕が挨拶に行っていいですか」と叔父に断り、図面を持って原宿の事務所を訪れた。まるで日本書紀のスサノオノミコトのようないでたちで現れた高崎氏に僕は歓待され、彼の建築論というか、宇宙論のようなすっ飛んだ話を聞かされ、結局「この建築を実現するためぜひ協力して欲しい」と懇願されてしまった。そうなると断れないのが僕の性格だ。意気に感じて図面を持ち帰り、社員には頼めないのでやむを得ず全部自分で見積もった。

 

結局僕の見積は4億程度となり、一応叔父の承認を取り付けて提出した。すると、施主のアルファキュービックから電話があり、社長が会いたいと言うので飛んで行った。見積は3社から提出があり、高い順に7億、4億、2億だった。そこで、真ん中の4億を出した僕の会社を信用し、工事を依頼したいのだが、予算は2億しかないので、高崎氏にスペックダウンをさせるよう説得して欲しいという。僕はさっそく高崎氏を訪ね、「ここで踏ん張らなければあなたの作品は没になるのだから、スペックダウンに協力しろ」と詰め寄り、しぶしぶ彼は応じてくれた。その後、部位ごとにメーカーと面談し、コストダウンの道を探ったが、10日ほど経ったところでまた施主から電話がかかってきて「松村さん、協力してくれて助かったが、結局2億の会社が是非予算通りでやらせてほしいと言うので、そちらに頼むことにした」とのことだった。その後、高崎氏からも詫びの電話が入り、引き下がるしかなくなった。その後工事は着工したが、半年もしないうちに請け負った会社はし、数か月後には大阪のA組が後を引き継ぎ、完成までこぎつけた。作品の名は「結晶のいろ」で発表されたが、その後バブル崩壊とともに取り壊されてしまった。

 

ついでにもう一つ叔父との思い出話だが、叔父が仕入れた土地をアパレルメーカーのワールドに売却し、そこに設計施工で建物を建てようとしたら、ワールドが建築家を指名したいと言うので承諾したら、それは何と安藤忠雄氏だった。これは大変だと思いつつ、でも安藤さんと仕事ができるならそれもと思っていたら、ある時安藤事務所から電話があり、「お宅の会社は聞いたことが無いので、SH社に施工させる」というのだ。これにはさすがの叔父も承服できず、大阪に乗り込むというので、ぜひ僕も連れて行って欲しいと懇願し、二人で安藤事務所に乗り込んだ。

 

当時の安藤忠雄氏は、住吉の長屋で鮮烈な各賞受賞を果たし、東京のファッションビルを全部手掛けるような勢いで、東京での施工はSH社を中心に、有名な大手ゼネコンが名前を連ねていた。だが、それまで無名だったころの安藤氏は関西では名も無い工務店と多数仕事をしており、僕の会社を断るなど横着としか言いようがない。あえてそこを突っ込んで交渉したら、安藤氏が「じゃあ、お前が現場を担当するならやらせてみてもいい」と言い出した。僕は設計屋で、現場監督の経験は無かったが、そんなことは言っていられないと、叔父は二つ返事で承諾した。でも、そのおかげで、安藤事務所とはみっちりお付き合いをさせていただいた。安藤氏本人とも次第に親しくなり、安藤氏主宰の接待旅行に誘われたので喜んで参加したら、現地で案内役をやらされる目にも合ったりした。

 

叔父は僕の入社2年後に、建設会社から分離した不動産会社へ移っていき、仕事上の付き合いはそれまでとなった。先日、いよいよ喉の奥に出来たガンを摘出すると体が持ちそうにないので、手術を諦めたと母から聞き、久しぶりに見舞いに行った。叔父は父と同じ昭和4年生まれだが、早生まれで予科練に滑り込んだ父とは違い、おそ生まれのために兵隊になれず、東京大空襲の日も新橋付近を走り回っていたという。久しぶりに僕の顔を見て、直後の話を一杯聞かせてくれたので、そのお返しに上の二つの話を思い出として叔父に聞かせた。というわけで、この話は叔父への手向けのつぶやきだから、ここだけの話にしてほしい。月曜日には通夜に行き、叔父に別れを告げたい。あの世では久しぶりに親友だった父と会い、僕の話で盛り上がって欲しいと思う。