僕ら自身が王になる

僕が前回シンガポールを訪れたのは、2004年のことだった。

ひょんなご縁で資産家の友人から「シンガポールのプライベートバンカーに会ってみないか」と誘われて、僕は迷うことなく飛びついた。

プライベートバンクと言えば、ゴルゴ13ご用達のスイス銀行を思い浮かべるが、日本でその実態に触れることはまずありえない。

彼は、ヨーロッパの生命保険を活用した資産運用を行うため、シンガポールで健康診断や財務相談をするというのだが、その担当者が「国境を超える資金運用について説明したいので、是非とも信頼できる友達を連れて来て欲しい」という。

そこで財務コンサルの友人と、おまけの僕が誘われたらしい。

だから僕にとってのシンガポールは、単なる観光地や未来都市ではなく、「世界につながる秘密の入り口」として、強烈な好奇心の対象となったことは言うまでもない。

【プライベートバンク】とは、スイスをはじめとした欧州において、歴史的な経緯により発生・成立した銀行の一形態であり、組織形態としては、「最低1名以上の無限責任のプライベートバンカーがとして経営に参画している銀行」である。

そのため、銀行自身がリスクがほぼない業務しか扱わずリスクがほぼ皆無であるのが他の金融機関との最大の違い・特長であり、いたずらに規模の拡大を追わず、スタッフ数も数十人から数百人ぐらいまでのこぢんまりとした経営規模が一般的である。

また、顧客対象は、主に世界中の王族や貴族を含む超富裕層・富裕層であり、営業内容としては、資産保全や資産運用が主要業務である。

実態として、そうした富裕層が「個人的に活用する銀行」であるという意味で(「私的な銀行」「プライベートなバンク」という意味で)プライベートバンクと呼ばれているきらいがあり、厳密には字義とは異なるが、そのようにも用いられているといえる。(・・・以下略するが、是非wikipediaを参照して欲しい)

さて、今日話したいことは、プライベートバンクやタックスヘイブンのことではなく、そもそも王侯貴族や大富豪が国境を越えて資産を保全しなければならないということだ。

なぜなら国に異変があったとき、最初に処罰されたり処刑されるのは彼らであり、常に「国のリスク」に備えなければならないからだ。

したがって、そんな彼らが身を寄せる国とは、他国から干渉されない強固な独立性とそれを維持する強固な体制だ。

その証拠に、その担い手であるプライベートバンクは、そうした国でしか存在し得ない。

代表的なスイスは、1815年ウィーン会議で承認された世界最古の永世中立国だ。

スイス銀行とはスイスに拠点を置く銀行の総称で、世界的資金の推定3分の1はスイスに預金されていると言われているが、中立とは自ら宣言するだけでなく、周辺国からの承認を得る必要がある。

こうした「コンセンサス」こそが世界を構築する基本原理であり、世界は決して「法律によって規定される法治体制」ではないことを僕は言いたい。

話は飛ぶが、2004年のシンガポールで僕が最も驚いたことは、「違反駐車」が1台も無いことだった。

確かにシンガポールは規制と罰金の国で、徹底した管理の賜物だと言えるだろう。

しかし、中国人とインド人とマレー人が入り混じる社会でこれほど忠実に規律が守られるのは、尋常なことではない。

そこで感じられるのは、北朝鮮のような恐怖の統治ではなく、極めて合理的なコンセンサスだ。

路上駐車できない面倒臭さと、違反駐車のない快適な道路とでは、後者の方が便利に決まっている。

こうした確信に基づいた規制だからこそ、むしろ国民の支持を得ているように僕は感じた。

今回14年ぶりに訪れたシンガポールでは、こうした規制が規律となり、さらにエスカレートしていた。

市街地にではビルの間に巨大な駐車場ビルが立ち並び、やむを得ず道路上に駐車スペースを確保する旧市街地では、バイクの1台ずつにまでスペースが割り振られていた。

機内で入国申請書を書く時に、国民ナンバーの記入欄があるのを見て、日本のマイナンバーなどまだ何も機能していないと僕は感じた。

こうして「国」は、世界各地で意思を持って作られ、その栄枯盛衰の結果として現在がある。

Wikipediaで「国」を調べると、「国(くに、こく)は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のこと」とあるが、まさに人々(住民)が暮らす地域(領土)を、意思(主権)と承認(外交)を備えたコンセンサス(合意)に基づいて保全することだ。

小さな国に行くとこの合意がよくわかるのは、小さな国が自給自足できないためだと思う。

周囲の国々から必要なものを調達するためには、周囲の国々と仲良くし、さらにメリットを提供する必要がある。

地の利を生かし空港や港湾施設を充実させ、世界の流通拠点を目指す手法は、中東のドバイなどでも同様だ。

金融や税制、流通や通信の他にも、平和への貢献や人道支援など、世界の小さな国々は、その存在価値故に独立を保っている。

世界は国で出来ている、市町村で出来ているわけではない。

だから僕たちが世界で生きていくためには、国の主権者として外交する必要がある。

市町村に暮らす領民として生きるなら、国の庇護を受ける代償として国に従属しなければならないが、日本には王様や支配者は存在しない。

主権者は僕ら国民自身であって、政府や行政は僕たちを支える下請けだ。

僕ら自身が範を示し導かなければ、いつまでも政府は迷走をつづけ、やがてだらしなくするだろう。

小さな国は他人事ではない。

地域社会を存続させたいと願うなら、その人たちは主権者として領土を定め、周囲の国と外交を開始すべきだ。

そこではこれまでの慣習や周囲の動向に従う必要はない。

無意味な規則は打ち破り、誰もが望む新たなルールを作ればいい。

もちろんその責任は、プライベートバンカーと同じように無限にのしかかってくる。

だが、自由と責任はパッケージ・・・僕がにこだわるのはそのためだ。

今回のシンガポール訪問では、まさにこうした「世界の仕組み」を同行した大学生たちに感じて欲しかった。

そこでまず、観光客たちがひしめき合う都心部でなく、郊外の名も無い団地から散策を開始した。

シンガポール国民の大多数がHDBと呼ばれる公営住宅に住んでいることは有名だが、その94.5%が分譲だ。

シンガポールは国土の大部分が国有地なので、99年のリース権を購入する。

そのため、国民は常に団地の市場価格に関心を持ち、団地の美化やイメージ向上に協力するという。

政府が「総分譲化社会」にこだわるのは、まさに国民を当事者としてに参加させるためだ。

「権利と義務」に縛られる「賃貸」は、領主に縛られる領民と変わらない。

僕ら自身が領主となり、「自由と責任」で世界と外交していくためには、だれもが「所有」にこだわるべきだ。

当事者になるとは、「僕ら自身が王になる」ことではないだろうか。